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雨の中の猫
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  「ヘミングウェイ全短編 1」 ヘミングウェイ(著)
高見 浩(訳)
文庫サイズ 小説(短編集)
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・総点 65  点/100
   

 

   
 評価に関する詳細は
「採点基準について」をご覧ください。
寸評:何度読み返しても楽しめる本、読むことの贅沢さを味わえる本

 

 

その他の書誌情報:

 全三巻で刊行されたヘミングウェイ全短編のうちの第一巻、タイトルで言えばIn Our Time(われらの時代)Men Without Women(男だけの世界)に当たる分の短編が収録されている。
 ただしこの訳書三巻は、原書として個々の短編集ではなく、フィンカ・ビヒーア版のThe Complete Short Stories of Ernest Hemingwayに拠っているため、多少の異同はある。まだ無名時代のヘミングウェイがIn Our Timeを出版しようとした時に、セックス描写が露骨だという理由で出版社に蹴られ、その13年も後になってから別の短編集に収録されることになった"Up in Michigan"が、In Our TimeMen Without Womenの間に置かれている。
 また、この短編集三巻にせよ、その元となったフィンカ・ビヒーア版にせよ、全集と銘打ってはいるものの、あくまでヘミングウェイ自身が発表したもの、及び彼の死後、遺稿の中から遺族が発表を許可したものが収録されているに過ぎない。例えば"Three Shots"のようなものは、当然と言えば当然だが含まれていない。ちなみにこれは、もともと"Indian Camp"の前半部としてあったもので、何段階か目の草稿から、ヘミングウェイ自身が短編の疵になっているとして切り落としたものである。後にPhilip Youngが、Nickの登場する物語だけを年代順に編纂して出版した折に、その本の目玉として発掘原稿の中からヘミングウェイの意志に逆らって発表してしまったものである(なお、ここでYoungが行っているNickの年代づけにも重大な誤りがあるので、それを頼りに読もうとする方がおられるなら注意された方がよい)。

 
コメント:

 書誌に書いたように、ほぼIn Our TimeMen Without Womenからなっている。前者の内容については既にそれを登録した際に書いたし、後者についてもその原書を登録する際に書くことになると思うので、そちらの方を見られたい。両者に含まれていない"Up in Michigan"(『北ミシガンで』)だが、これはあまりたいしたところのない短編である。実際書かれた時期としてはきわめて初期のもので、"My Old Man"(『ぼくの父』)ほどではないものの、まだ若書きな傾向が残っている。出版当時問題になったセックス描写については、現代から見るとまったくたいしたこともない。われわれの感覚からすると、あっさりしすぎていると思われるほどである。氷山の理論をまだ完成させていないヘミングウェイが、その未完成な理論にのっとって行為を描写するのに四苦八苦しているさまが読み取れると言う点ではなかなかに面白く、わたしなどには著者のその姿がほほえましくも思えたりするのだが、まっとうな楽しみ方とは言えないだろう。

 翻訳はよい。あくまでわたしにわかる範囲でのことだが(わたしの語学力はお粗末なものである)、日本で出版されているさまざまな翻訳書の中で、「なかなか」から「かなり」よい部類に入るのではないだろうか。間違いも少なく、何よりヘミングウェイの文体の雰囲気がよく出ている。訳注や著者の年譜もなかなか役に立つ。また訳者自身による解説は、ヘミングウェイをほとんど知らない状態でこれから読もうとする読者も、またヘミングウェイを読んだ上でもっと彼について知りたくなった読者も、同様満足させることができるだろう。

 ところで、話は多少逸れるが、翻訳書には絶対にミスがあるということを言っておかねばならない。あまりそのあたりのことを意識して本を読んだことのない方は、本というものに書かれていることは絶対で、そこにミスなどといったものはないと思っている方が多い。これはひどい誤解である。どこまでをミスとするかという問題はあるが、たとえ日本人の著者によって、ここ10年以内に書かれたような本であっても、多かれ少なかれミスはあって当然である。落項、誤字、著者の意図したものとは違うルビや改行、空白、構成。特に改版を重ねるにつれこうしたミスは増えていく。きわめて厳格な目で判断した時に、出版されているあらゆる本で小さなミスの1つもないものは、存在しないと言ってよいのではないか。
 ましてミスのない訳書などあるわけがない。上で挙げたようなことに加えて、訳文であることによるミスも付け加わるのである。さらに言えばわたしの読んだことのある限り、訳の上でのミスのない翻訳書など恐らくありはしないのではないか。とはいえ、それに目くじらを立てるつもりはない。繰り返すようにミスなどあってあたりまえのものだし、それを気にして本を読んでもつまらない。どうしても納得のいかないところがあれば、自分で調べるなりなんなりすればよい。
 この訳の上でのミスであるが、大まかに二つの場合がある。ひとつは明らかな誤訳や訳者の読み違え、見落としなどによるもの。もうひとつは解釈(つまり読み方)の違いによるものである。訳者が読んだ読み方よりも、もっと適切(あるいは面白い)読み方があるという場合がこれである。もっとも後者の場合には、訳者がその解釈を知ってはいても、日本語にする上でどうしようもなくそうなったということが多々あるのだが。

 先にこの本の訳がよいと述べたのは、一つには原文の雰囲気が素直に活かされているということがあるし、もう一つにはこのミスが(平均的な訳書に比べて)少ないということである。本を読むことを楽しもうと言う人にとって、十分に水準以上の訳である。ただし、ミスが全くないわけではないし、一箇所だけわたしとしてはどうしても見過ごすわけにはいかない誤訳がある。解釈の違いによる部分と、それ以上の明らかな読み違いによる部分との両方があるので、恐らく訳者はここについては読めていないないのではないだろうか。最後にこの点だけ指摘しておくこととしよう。

 問題となるのは第六章"A Very Short Story"(『ごく短い物語』)につけられたスケッチの部分である(スケッチがどういうものかはIn Our Timeの方で説明しているので、そちらを見て欲しい)。新潮文庫の翻訳では89ページである。In Our Timeの数々のスケッチの中で、ただ一つNickの名前が登場するものとして知られているものである。
 このシーンでNickは兵士として戦場にいる。市街戦だ。崩れた街の様子が淡々と描写されている。前線はすぐ近くのようだが、負傷したNickはRinaldiとともに友軍からおいていかれている。すぐそばには敵兵の死体がごろごろ転がっている。NickはRinaldiに声をかける。
 ただこれだけのスケッチであるが、ここでわれわれが絶対に読み逃してはいけないことがある。それは死と、死に対するNickの恐怖だ。恐らく訳者はそれが十分に読めていない。新潮版の訳を冒頭から見ていこう。

 ニックは教会の壁にもたれてすわっていた。路上で交錯する機関銃火を避けるべく、そこまで引きずられてきたのだ。

 原文ではここまでがひとつの文である。日本語にする上での処理として仕方のないことかも知れないが、二文に分けられてしまうと、冒頭の文から見せつけることで読者に印象づけようとした戦争の雰囲気がかすんでしまう。またこれも仕方のないことかもしれないが、自分で歩くこともできず「引きずられてきた」わけなのに「すわっていた」はおかしい。すわらされていた、とするべきだろう。Nickの死への恐怖の鍵として、負傷して自分からはなにもできない状態、そしてそれなのに戦場の片隅に友軍から置いていかれ、ただ担架が来るのを待つしかないということがある。彼はほとんど動くこともできないのだ。このシーン中、彼はやたら頭を動かして周囲の様子を見ようとする。脊椎を負傷したとあるNickは、恐らく頭しか動かせないのだろう。それでも何とか周囲を見ようとするのは、その無力な状態があまりに恐ろしいからだ。
 この後負傷しているNickの様子、戦場の暑さなどが描写され、Nick同様置いていかれているRinaldiのことになる。

 リナルディが大きな背中を見せ、装備を周囲に投げだし、頭を壁にもたせかけてうつ伏せに横たわっていた。

 訳に問題があるというわけではないが、原文ではほとんど分詞構文で描写されている。「装備を周囲に投げだし」と書くと、Rinaldiが自分でやったようにも読めてしまうがもちろんそうではない。
 それから崩れた家、転がる死体のことなどが書かれ、戦況の描写になる。瓦礫の中に敵兵の死体が二つ。道路の死体は数も書かれていない。味方のものもあるのだろう。Nickはこの死体に囲まれて、いつ自分がその仲間入りをするかもしれないという恐怖にさいなまれているのである。

 戦闘は町の中央部に移っていった。情勢は有利に展開している。じきに看護兵が担架を持ってきてくれるはずだ。

 ここも訳は問題はない。ただ注意すべきこととしては、「情勢は有利に展開している」とか「じきに看護兵が担架を持ってきてくれるはずだ」というのは、あくまでNickの判断だということだ。戦場の恐怖を必死に打ち消そうと、彼がそのように考えているのである。まだ看護兵は来ないのか、せめてその場をまぎらわそうと、NickはRinaldiにたわいもない冗談を飛ばす。ここから終わりまで、新潮の訳を全て引用しよう。

 ニックは慎重に頭をよじってリナルディのほうを見た。「センタ(おい)、リナルディ。センタ。あんたとおれ、敵と単独講和を結んだようなものだな」リナルディは陽光を浴びて、苦しげに息をしながらじっと横たわっていた。「ああ、愛国者とは言えないな」ニックはそっと頭を元にもどして、汗ばんだ顔に微笑を浮かべた。リナルディは話し甲斐のない聞き手だった。

 まず問題なのは、カッコの中の会話文二つである。と、その前に「単独講和」という言葉について説明しておこう。この短編集が発表されたのはヘミングウェイも参加した第一次世界大戦の後の時代で、戦争といえば一対一ではなく、多国対多国であるのがあたりまえになった時代である。そこで「単独講和」と言えば、その多国の中のある国が、他の仲間の国をある意味裏切って、一国だけで敵国と講和を結ぶことを言う。これを知らないとこの冗談が分からない。
 さて最初のセリフ中にある「敵と単独講和を結んだ」だが、原文には「敵と」はない。これは訳者が付け加えたものである。元の文では単に「あんたとおれ、おれたちは単独講和を結んだようなものだな」となっている(原文では、「あんたとおれ」を一回「おれたち」で受けなおしている)。二番目のセリフも同様、「ああ」という言葉はない。たった二語"Not patriots"である。修正するなら「愛国者じゃないな」くらいだろうか。
 Nickのジョークの中で「単独講和を結んだ」のはNickとRinaldiなのである。彼ら二人が、二人の敵と結んだのではない(訳者が恐らく考えているように、死体として転がっている敵兵と講和したとするのはありえる読み方なのだが、後で述べるようにそれでは最後の文が生きてこない)。従って、Rinaldiは敵兵であるか、少なくともNickの冗談の中では敵兵の役割をさせられていることになる。実際の戦場において、負傷しているからといって、敵兵を味方兵と一緒に置いておくことがありえるのか、あるいはNickを置いていった味方たちが気づかないうちに、そこに敵兵が負傷して転がっていたのか。そのあたりのことはわたしにはわからない。だが単にジョークの上でのことではなく、実際にRinaldiは敵兵と読むほうが面白いのではないかと、わたしには思われる。
 ともあれ実際に敵兵であるにせよ役割上のことにせよ、NickとRinaldiの間で単独講和を結ぶというのが彼の冗談の中身である。しかし、これだけではまだ十分ではないだろう。「愛国者じゃないな」という落ちがつかないとジョークにはならない。翻訳ではNickの呼びかけに対してRinaldiが答えたように書かれているが、そうではない。このセリフはNickが「単独講和を結んだようなものだな」に続けて、そのオチとして言っているのである。ヘミングウェイの文章には、伝達動詞が全くなくただカッコの中のセリフを連ねただけのものがよくあるが、そのせいでしばしば誰が喋った言葉なのか非常に分かりにくくなる。短いがこれもその例だろう。だが両方をNickのセリフとしないことには冗談にならない。

 そこらに転がっている兵士たちの死体に否応なしに見せつけられる死への恐怖を紛らわそうと、Nickはそんな冗談を口にする。笑ってもらうなり、別のジョークでやり返されるなり、あるいはバカにされたっていい、生きた人間の反応が欲しいのだ。最初のセリフの中で何度も「センタ(おい)」と呼びかけるのは、負傷して身動きもとれず友軍から置いていかれたNickの恐怖心と孤独感がそうさせているのだ。死の前では誰でも孤独に思えるものだ。なおさら彼はほとんど味方に見捨てられたようにも感じているのだろう。だがRinaldiが何か返してくれれば、死への恐れや、どうすることもできない自分の無力、孤独をわずかでも慰めることができる。
 では彼が死への恐怖を紛らわすためのジョークを言っている間、Rinaldiは何をしているのか。前に描写されているように、Rinaldiは、Nickの側に「大きな背中を見せ」、また「うつ伏せに横たわって」いる。Nickからその表情は見えない。ただ「苦しげに息をしながらじっと横たわって」いるのがわかるだけである。だから彼のほうに顔を向けていたNickは仕方なく「そっと頭を元に」戻す。注意深い読者であれば、Rinaldiの顔がNickから見えないことをヘミングウェイが丁寧に書き込んでいるのに気がつくだろう。これもまたNickの孤独感を書き立てているものの一つである。また頭を回せば周囲が見えるような状態で座らされているNickに比べ、Rinaldiは「装備を周囲に投げだ」され、「うつ伏せに横た」えられている(この扱いの違いも、彼を敵兵とする根拠にもなろう)。これが示しているのは何か? それは最後の一文「リナルディは話し甲斐のない(原文"disappointing":失望させるような)聞き手だった」を見れば明らかだろう。RinaldiはNickの目の前で死んだのである。もともと助かる見込みもないので、彼は「うつ伏せに横た」えられていたのだろう。そのことにNickは気がつかず、なんとか自分の生きる慰めを見出そうと、返事欲しさにRinaldiに声をかける。生きた人間のぬくもりが欲しいのだ。それがあれば少しは心が休まるはずなのだ。だが、彼の期待は最悪な形で裏切られる。「苦しげに息をしながらじっと横たわって」いたRinaldiは、彼のジョークに答えることもなく、息を引き取る。Nickは正真正銘、死に囲まれて一人ぼっちとなってしまったのだ。その絶望をただ一言冷たく「リナルディは話し甲斐のない聞き手だった」と書いたヘミングウェイは、さすがとしか言いようがない。

 わたしが指摘しておきたい訳のミスとは以上のようなものである。このスケッチに関しては、恐らくこう読むしかないという確信がわたしにはある。ここの部分に関しては、原文のヘミングウェイの描写は彼にしては天才的としか言いようのないもので、どうしてもそれを伝えたかったこともあり、僭越ながら指摘させてもらった。もちろん、わたしの方が間違っているということも十分にありうる。なお、In Our Timeの方で述べたように、作者が仕掛ける謎というのは、こういうものを指している。これはどちらかと言えばかなり分かりやすすぎるほどの謎ではあるが、Nickの心の動きをちらちらと見せながら、Rinaldiの死をあからさまには見せず隠しておくやり方はこの作者にしてはなかなかのものと言えるのではないか。謎自体もこのスケッチの主題と十分に絡み、それを読み解くことでテーマがはっきりと読者の目に示されるようにできている。新潮版の訳で読まれる方には、こうした仕掛けが原文の方にはあったことを是非知っておいてもらいたい。

(2004/7/26)

 
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