気のない本棚
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雨の中の猫
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  「ぼくんち」(全三巻) 西原理恵子 ハードカバーサイズ マンガ・コミック
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・総点 65  点/100
   

 

   
 評価に関する詳細は
「採点基準について」をご覧ください。
寸評:何度読み返しても楽しめる本、読むことの贅沢さを味わえる本

 

 

その他の書誌情報:

 もともと90年代末、週刊ビッグコミック スピリッツに連載されたマンガの単行本。巻末に毎回見開きの2ページ、フルカラーで連載された。
 一般にマンガ雑誌の多くは、巻末に特別な意味のある連載を持ってこようとする。こうしたもののほとんどは、ページ数はごく短い。だが長さとは裏腹に、連載陣の中でも特に質の高いものが多い。これもまた雑誌の締めを飾るにふさわしい、優れたマンガであった。
 もとがフルカラー連載であったので、この単行本も全三巻フルカラーで印刷されている。サイズも通常刊行されているマンガ本より大きい。後に通常のマンガ本と変わらないサイズで廉価な単行本も出版されたが、こちらは白黒である。その代わりということではないだろうが、そちらには書き下ろしがあるようである。

 
コメント:

 わたしはこの三冊のマンガ本に65点という点数をつけた。だが、この点数はあくまでわたしから見て普通と思えるような読み方をした時のものである。もしもこの著者の世界をまっすぐに受け入れられる読者ならば、80点ほどの価値は生まれるだろう。
 非常に乱暴な区別であるが、作者の描くものは大きく二つの種類に分けられるようだ。一つは「はれた日は学校をやすんで」に代表されるような、独特のユーモア感でもって弱い者たちの目線から、その暮らしぶりを描こうとしているものである。このタイプのマンガの登場人物たちはたいてい貧しく、また無力な子どもが多い。描かれている日常は赤貧の生活であったり、社会の底辺であったりする。自伝的要素も強い。もう一つは「まあじゃんほうろうき」に代表されるような、著者自身の現在の体験をもとにしたものである。たいていは自分を捨ててかかるような、無茶苦茶に自棄的・露悪的なものになる。このように書いたらお分かりだろうが、両方とも共通する部分が多い。読者がそれを開いた時に強いられるスタンスは大きく変わらざるを得ないが、根底にあるものは大して違いはしない。喩えて言えば、子犬と成犬に対して飼い主がとる態度が違うという程度のことである。
 この本は前者に分類されるだろう。前者の本の特徴として、弱者の側からその生活を描いているということを述べた。一般にこうしたものはいやらしい。それが小説であれマンガであれ、あるいはその他のものであれ、他愛もないルサンチマンに終始していたり、あるいは方程式どおりの良くできたお涙頂戴ものであったりするからだ。この種のものは世間に無数に存在するが、たいてい読めたものではない。読む以前から「本の用意してくれた感動のレールに乗って進めば、この程度感動できるのだろうな」とわかって読むしかないからだ。
 残念ながら著者が描いているものも、この欠点から逃れられてはいまい。今回取り上げた「ぼくんち」を含め、そうしたスタンスで書かれたものはどれにせよ、見え透いたお涙頂戴のレールが程度の差はあれ鼻につく。特にここ五年以内に描かれたものほどひどい。著者自身もわかっているのだろう、半ば自虐的にそのことについて吐露してもいる。始めに書いたが普通に読むなら65点という評価は、この上で判定されたものである。用意された感動のレールに乗って読むならば、65点くらいの面白さが適当と言えるだろう。

 だがそれ以上に面白い読みが存在する。現実がそうであるように、著者はそこで描かれている弱者に対して一貫して残酷なのだ。彼らはどうしようもなく救われない。貧乏人はずっと貧乏なままであり、不幸な者はより不幸になる。弱者であるとはそういう意味だが、彼らは自分たちの境遇に対して徹頭徹尾、無力なままに描かれる。この冷徹さは凄まじい。ほとんど読者を拒絶するほどだ。登場人物たちに共感し、感動のレールに沿って読んでいた読者ですら、ひとたびこの残酷さを目の当たりにしてしまうと、ほとんどそこから振り落とされてしまいかねない。この作品世界とのどうしようもない距離こそがこの作品を極めて優れたものにしているのだ。先に65点と述べたが、この絶対的な距離感を、あるいは世界からの墜落感を味わえるような読みをできるものには、80点ほどの価値は十分に生まれよう。
 これはほとんど偶然の産物か、名人芸かでしかありえないような絶妙のバランスである。読者は自分が読み共感してきた世界から、それをはるか無限遠点のような高みから見下ろす作者の絶対零度の視点に吸い込まれていくのである。作者の描く世界に生きる弱者たちはどうあっても彼らが弱者であることから救われない、それはもはやどうしようもないことなのだ。その世界に入り込んでいた読者たちは、自分たちがどれほど彼らに共感しようとも、どれほどそれを哀れに思いその哀れさを種に感動しようとも、自分たちにはそうした人々をどうやっても救ってやることができないのだという事実に直面する。作者は登場人物のみならず読者たちまでもきっぱりと突き放すのだ。読者はおろおろ途方にくれるしかない。これこそがこのマンガにおいて最も評価されるべき点であろう。

(もちろん、この作品の描き方について、生半可にポスコロなどをかじった輩などからは、「本来の原因を隠蔽したまま、弱者が弱者であることを『どうしようもないこと』であると描いていることが問題だ」などという批判もあるだろう。なるほど確かにそれはその通りかもしれない。だがこのマンガの面白さとは何の関係もないだろう。中身のないポスコロなど糞喰らえだ)

 不要と思わなくもないのだが、この面白さの仕組みについて一応解説はしておいた方がよいだろう。分かっている方には言うまでもないことなのだが、これは視点の魔術である。用意されている読者の視点、つまり、このような立場と距離感でその物語世界を眺めて欲しいと作者によってしつらえられた読者のための席である。例えば、ある登場人物に感情移入してもらい、その人物が眺めるとおりに世界を眺め、感じるとおりに感じてほしいというのもこのような読者の視点のひとつとなる。この読者のために用意されている視点と、その物語を描く時に作者が作品世界に対してとった作者の視点が大きくずれているために、このようなことが起きるのである。ただずれているだけであれば、ともすれば読みにくいだけのマンガになるところだが、読者の視点をくっきりと用意した上で、隠し切るのではなく目立たないように、作者の視点を織り込んでいく。そして物語の折々に読者のものにかぶせるように、それよりもはるか離れた位置からの作者の視点を目立たせる。この技術が完全に成功しているからこそ、このマンガが優れたものになっているのである。

 とくに終盤においては物語の仕掛けと呼応して、物語を結末に導くための展開を、この視点がすばらしいものにしている。まだ子どもの二太(一応は彼が全体の主人公なのであろう)は安キャバレーで働いている姉(作中では「ねえちゃん」と呼ばれる)と二人暮し、その兄の一太はヤクザ稼業をしている。登場したばかりの序盤には弱者たちから搾取する強者とも見えたヤクザの「こういちくん」(腕っ節だけならばこのマンガを通じて一番強いだろう)は、すぐに彼もまた弱者でしかないことをあらわにしたが(この世界にはほとんどみな弱者しか登場しない)、彼がヤクザをやめ漁師になった時にそのシマを一太に残している。こういちくんと違い人並みの腕力しか持たない一太は、弟と姉に楽をさせ彼ら家族の夢であった家を取り戻すために、もらったシマで必死になってヤクザ稼業に精を出す。しかしその一番大事なときに、他のヤクザに襲われて身ぐるみはがされ大切なシマを全て奪われてしまう。見舞いにきたこういちくんの「あのシマはおれが昔盗ったもんだ。だからいつかは盗られる。そういうもんだ」という声は彼には届かない。シマをくれたこういちくんへの義理のため、また自分自身の、弟の、姉の夢のため、彼は病院を抜け出してシマを奪ったヤクザとの殺し合いの世界に身を投じる。明日は誰かに殺されるかもしれない、明日は誰かを殺すかもしれない、そんな生活の中にいる彼を、姉が「おなべこさえたのよ。一緒に食べへん?」と迎えに来る。彼ら三人の夢であった、売りに出されたかつての家で鍋を食べると、姉はその家に火をつけて、「見てみ。燃えたらなくなるもんやんか」と言う。一太はその日のうちに町を出て、新しい暮らしを見つけるために他の町に行く。

 ここまでの展開において、作者の視点はほぼ隠され、読者は用意されたレールに沿って読み進めるだけでよい。この後二話に渡り、遠くの町(彼らが暮らしていた町よりも、さらに貧乏なところである)で燃やしてしまったもはや手に入らないかつての家に代わる、新しい「ぼくんち」を手に入れるため、おでん屋として働き始めた一太からの二通の手紙という形で物語が進められる。読みとして重要なのはその二通目、三巻の第34話にあたる部分である。

 「ねえちゃんへ、長いこと手紙かかなんでごめんなさい。おでん屋は順調です」から始まる手紙、その背景のコマでは彼の屋台が燃えている。仕入れの帰りなのだろう、大根をのぞかせる袋をかついだ彼に、おでん屋をやることを勧めた覚醒剤屋の男が「兄ちゃん、サイナンやったけど、覚えといたほうがええで。この町では燃えるもんは燃やされる。特に冬はな」と言う。へたり込む彼の後ろから、いつも余り物をやっていた乞食が「大将すまんなー いっつも食わせてもろとるのにー。わし見はっとったんやけど誰がいつの間に」と声をかける。その様子を背景にして姉への手紙の文面は進む。「ただ、この町は、ずるくて、運がなくて、弱い人ばかりの町で少しだけなれるのに時間がかかったんです」 この手紙の言葉はまさにこのマンガの世界自体を直接的に表している。これまで読者が読まされてきた視点と、それを突き放す作者の視点とのずれが、ここで手紙の文面とその背景のコマに描かれていることのずれとして表に現われはじめているのだ。

 おでんの屋台を燃やされた一太はより底辺に近い側の人々に混じって日雇いで働き始める。きつい解体の現場で「いやおれ店やりたいんですわ。おでん屋。楽させたい人と食わせなならん奴おるんで」と笑顔で語る。この笑顔の描き方は特筆すべきものである。このセリフに語られたものこそが、彼が今手に入れたいものなのだ。だがこの笑顔の中にはそれをどれだけ彼が望んでも絶対に手に入らないということの自覚があるのではないだろうか。彼は、この物語世界からの退場までこの笑顔を貼り付けたままである。
 「おでん屋は順調です」と手紙を始める彼は、解体現場でのセリフも含めてこの第34話において一貫して本心を語れない。どれだけ嘘をつきたくなくとも、この世界で、彼のような弱者は嘘をつかざるを得ないことがあるということを如実に表している。姉と弟に宛てた手紙は続く。「ねえちゃんへ 少ないですけど二万円入れときます。たまったらまた送ります」 日雇いの彼にとって、この二万円とは、全財産、ほとんど自分の生活にかかるお金以外の全てなのではないだろうか。それを送るということは、もう一度屋台を立てなおしておでん屋をやるということを、この時点で彼が諦めていることをはっきりと示している。「二太へ」と文面が続く背景で彼は現場から帰路に着く。屋台を燃やされ、もはや寝るところもないだろうに屋台を置いていた場所に帰ろうとしているのだ。そこで寝ているいつもの乞食に「おっちゃん またそんなとこねてんのかい、このひやいのに。めし食わしたるから起き」とかがんで声をかける。この場面もあの笑顔のままだ。そしてその笑顔が大写しになった背景に「二太へ 嘘をつかない人間になってください」と文面が続き手紙が終わる。最後のコマ、手紙を読む姉と弟のところに場面は戻り、二太の「それが 兄ちゃんから来た最後の手紙だった」という一言を残して一太は物語から退場する。

 この程度の謎解きをいちいちしてもしようもないが、一太はもう彼らのところに戻るどころか手紙すら書けないのだろう。一太はこの乞食の男を殺すのである。
 述べたようにこの世界の弱者たちは、どうしようもなく嘘をつかざるを得ない。一太の屋台を燃やしたのはこの乞食なのである。「わし見はっとったんやけど誰がいつの間に」と言い、これまで余りもののおでんなどをもらっていたこの乞食が火を点けたのである(意図したものかわからないが、声をかけるコマで彼の背中は屋台の灰と同じ色に汚されてもいる)。「サイナンやったけど」と言った覚醒剤屋の男も見ていたのだろう。火を点けたのが誰かはこの時すでに一太もよく分かっている。「このひやいのに」と、解体現場から帰った一太は「燃えるものは燃やされる」ような冬に外で寝ている乞食に声をかける。「めし食わしたるから起き」と言う一太の張り付いた笑顔にクローズアップして「二太へ 嘘をつかない人間になってください」という文面が流れる。一太はもう嘘をつくしかないところにいるし、そのことを自分自身でよくわかっているのだろう。この手紙の文面と彼がそこでしようとしていることの大きな距離が、それまで彼ら弱者に共感しその弱者ぶりをタネに感動しようとしてきた読者に、読者がどれだけ望んでも彼らを救うことはできないのだという絶対的な事実を突きつけ、その共感自体に冷や水を浴びせ掛ける。一太はもはや救われようなどとすら思っていないのだ。この作品世界を冷徹に描き続けてきた作者のこの態度の前に、読者が安住しようとしていた場所はひっくり返される。

 ざっと紹介したように、背景としてある作者の一貫した距離感がこのマンガ自体をすばらしいものにしている。一方でこうした弱者を中心に据えた作品によくあるように、読者のためのレールも前面に用意されている。この二つのバランスというのは想像するに非常に難しいものなのだろう。先に述べたがこの作者の他の似たマンガでもどれもこれも成功しているとは到底言えない。その距離感を見失い作中人物に引き込まれて甘ったるく描いてしまうということはさすがにこの作者にはないが(この手の作品はそんなものばかりである)、それでもその分裂した二つの視点の操縦ができず分解してどこか白けたものになってしまっていることがある。だが、この作品はその危険を冒しつつも危ういところでバランスをとり、実に見事に仕上げた白眉と言ってよいものだろう。

(2004/7/27)
(2004/8/24 追記)

 
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