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雨の中の猫
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  「エスパー魔美」(全6巻) 藤子・F・不二雄 文庫サイズ マンガ・コミック
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・総点 80  点/100
   

 

   
 評価に関する詳細は
「採点基準について」をご覧ください。
寸評:何度読み返しても楽しめる本、読むことの贅沢さを味わえる本

 

 

その他の書誌情報:

 小学館コロコロ文庫 全6巻
 初版1996年10月10日
 初版分しか確認していないが、第5巻に乱丁がある。39pと43pが入れ違いになっている。
 文庫マンガブームの頃に作られた再録本であり、全ての話が収録されているかは不明。
 なお、これの先駆形となった短編『赤毛のアン子』というものが存在する。こちらはSF短編集などに収録され、その際に『アン子、大いに怒る』と改題された。

 
コメント:

 何度読み返しても楽しめる、実に良質なマンガである。
 作者についての説明は今更不要だろう。およそ日本のマンガ史上、手塚治虫には及ばぬものの、神様に次ぐ名声と、おそらくは神様を越える読者を獲得しているからだ。藤子・F・不二雄の著作や略歴などについては数々の研究本に詳しいし、今更ここで並べ立てることはしない。だが、この「エスパー魔美」というものだけは、彼が死ぬまでに描いて来た数々のマンガの中でも際立って異色のものであるということを指摘するにとどめる。
 何が違うのか? どうもこれは、描かれ方の質と深さで、同作家の一見似たようなマンガと一線を画しているようなのだ。だが、そのことを説明する前に、エブリデイ・マジックというものについて解説を加えておいた方がいいだろう。

 この作家のマンガは、たいてい、エブリデイ・マジックに属するとされる。このことは、多くの批評家たちがこれまでしつこいほどに言い続け、言い尽くしてきたことである。これは良く使われるファンタジーの分類法で、ライトファンタジーの下位ジャンルとしてあり、ごく普通の、われわれとそう変わらないような常識的な日常の中に、普通でないもの(魔法であるとか、SF的な現在存在しないような未来技術であるとか、はたまた宇宙人、妖精、オバケなどなど)が登場するものを言う。平凡な普通の日常の中にそうした非日常なものが入り込んだ故の、それに振り回される人々のドタバタや悩み、あるいは日常起こりうる困難をそうしたもので乗り越えていくさまなどを描こうとするものがほとんどである。そのためこの手のファンタジーの傾向として、悲劇や、あるいは冒険活劇的なものよりも、むしろ笑劇的であることの方が多い(全てがそういうわけではない)。そしてより重要なことだが、そうした非日常に普通の人がふりまわされるというのがエブリデイ・マジックの醍醐味である以上、物語の主人公(焦点人物)となるのは、たいてい非日常的キャラクター(例えば、ドラえもん)ではなくて、普通の日常的な人物(のび太)である。

 確かに、彼の描く世界はこのエブリデイ・マジックに属することが多い。あるいは生前本人が好んで使ったようにSF(スコシ・フシギな物語)とすべきだろうか(ただし、藤子・F・不二雄が言うところの「スコシ・フシギな物語」とエブリディ・マジックには概念的に無視することのできないずれがある)。「ドラえもん」、「オバケのQ太郎(クレジットは藤子不二雄だが、実際には多数のマンガ家との共著)」、「キテレツ大百科」、その他数ある代表作は、たいてい座りよくこの枠の中におさまる。

 だが、この「エスパー魔美」だけは、どうもその枠からいくぶん外れているようなのだ。何がそうさせているのかと言えば、おそらく対象年齢層の問題だろう。このマンガが中心の読者層として据えているのはおよそ中学生以上くらいだろう。これはこのマンガ家にとってきわめて異例のことである。

 藤子・F・不二雄のマンガで、そのターゲットの中心となる読者の年齢層が(ひいては、読者が感情移入するであろう主要登場人物たちの年齢が)中学生になっているものは、これを除けばほとんど全くない。「ドラえもん」に代表されるような小学生対象のものか、むしろSF短編などの大人向けのものの方がよほど多いのである。

 そしてこれほど禁欲的なマンガ家というのもちょっと例がない。それだけ読者に対して良心的であるということなのだが、対象読者層を小学生に据えたならば、絶対に小学生にわからないような話は描かなかった。本来の対象層以外の読者がどれだけいることを理解していようとも、また自分が描きたいテーマというものがどれだけあろうとも、必ず話を小学生にわかる範囲に留めている。作家ならばどうしてもそうした欲にはあがらいがたいものである。だのに、彼は自分の本来のお客さんを一番大切にし、そのためには惜しむことなく自分の主題を犠牲にしたのである。これは神様、手塚治虫ですらできなかったことだ。反面、それによる欠点もままあった。小学生にちゃんと理解できる話に留めようと腐心するあまりに、物語が未消化になってしまったものもある。テーマ性の乏しい、ただプロットにしか過ぎないようなものになってしまったものもある。これらは彼の、特に対象年齢の低いマンガに常につきまとう弱点である。なお言うまでもないことだが、この誠実さは本人が関わっているものにだけ見られる特徴である。残念ながら、この作家の場合は本人が書いていないものが結構多い。

 そうした自分を殺した、殺さざるを得なかった低年齢対象のマンガの中で、「エスパー魔美」がひときわ異彩を放っているのは、その年齢層による縛りがゆるいことにあるだろう。ゆるいとは言えそれが全くないわけではないのだが、少なくとも小学生にはまず理解できないような、ひょっとすると中学生にも難しいのではないかというような物語も散見する。おそらく作者はこれを読む読者を、まだ子どもの世界の内にありながら、大人の世界を見始めたものとして設定しているのではないだろうか。いわゆる思春期の子どもたちである。なのでどの話を取ってみても、まだ子どもとしてあるしかない思春期の少年少女の視点と、やがて彼らが否応無しに身につけることになる大人の視点とが、二重焼きのように両立しているのだ。それがこのマンガの面白さの一つの大きな要素となっている。

 そのような構造の中で、作者の描こうとしたテーマは十二分に発揮されている。他のものに比べてということだが、このマンガの中では作者は自分の主題に対して非常に饒舌になる。テーマを語りたいのならば、はじめから読者層が大人にしつらえてあるSF短編などでやればよいことであるだろうに、むしろこのマンガでの方が、目立ってそれを語っている。もはや推測することしかできないのだが、たぶんこういうことだろう。彼は大人にではなく子どもに対して、それもこれから大人にならんとする子どもに対して、語りたいことがあったのだ。作中に現れる、成長の只中にあるものへの愛情あふれる視線としての作者の目を見るにつけ、この推測もあながち外れてはいないのではないかと思わされる。

 従ってこのマンガはビルドゥングス・ロマン(未熟な主人公が徐々に成長していくさまを描く物語)としての要素を多分に持つ。いや、むしろビルドゥングス・ロマンとしての物語が先にあり、たまたまそれを描いた世界がエブリデイ・マジックに似たものであったと言う方がより正確なのではないか。本来、エブリデイ・マジックと主人公の成長は縁の薄い、いや本当のことを言えば、相反するものである。日常に非日常のものが迷い込むエブリデイ・マジックの世界において、主人公の成長はその世界の崩壊を導いてしまう。たいていのエブリデイ・マジックがそうであるような、主人公が日常の側のキャラクターである場合には、その成長は非日常の力が不要になったことを意味する。例外的に主人公が非日常の側のキャラクターであるならば、主人公の成長によって、その主人公が本来属する世界への帰還か、あるいはその非日常的な力の放棄かという形で物語を終わらざるを得なくなる。そうでなければ作中の日常と非日常のバランスが逆転し、もはやそれはエブリデイ・マジックとは呼べないものになるだろう。「ドラえもん」のようなもはや物語を終えることが許されないようなものにおいては、主人公が恒常的に成長できる余地は無いと言ってよい。だからこそのび太の成長は、独立した長編の中でなされるしかなかったのである。

 その世界観自体の崩壊を恐れずに、藤子・F・不二雄は魔美を成長させていく。エスパーとしての能力が向上していくことだけを言っているのではない。むしろその能力は、それ無しの子どもの立場では決して触れることのできなかったであろう、大人の世界にコンタクトしていくための手段として発達していく。そうして大人の世界を見ていくことで彼女は大人としての自分を徐々に作り上げていくのである。だからこそ、作者のマンガとしては例外的だが、およそハッピーエンドとは言えないものもいくつかある。その中で彼女は成長していくのだ。

 思うに、藤子・F・不二雄がそのスコシ・フシギな世界の中で本当に描きたかった物語とは、こうした大人の世界に少しずつ近づいていく子どもたちの成長なのではないだろうか。誰もがいつかは失ってしまう子どもの世界への憧憬と、それをどのように失い大人の世界に入っていくかが、彼の生涯のテーマであったようにわたしには思えてならない。例えばSF短編集収録の『劇画オバQ』には大人の立場からのその悲哀と憧憬(そして再生産)がよく描かれているし、だからこそ、一度はのび太を成長させ自立させて、ドラえもんを未来に帰し、物語を終えようとしたのだ。

 のび太を成長させるためには物語を閉じる他はなかったように、「エスパー魔美」においても、魔美の成長の先にあるのは物語の終焉である。作者は実に見事に物語を終えている。一連の先立つお話の中で、さまざまな角度や立場から、大人の人間として生きるためにはそれぞれが自分の生きるための意義や生きがいのようなものをもたねばならないことを学ぶ。大したものでなくてもいい、自分にとって価値が持てるものであればいい、だがそれは自分ひとりの力で見つけなければならない。それを持つことの難しさ、見つけることもできずにいる人々、周囲の評価に流され自分自身が確信していたはずの価値を見失ってしまった人たち。そうした大人たちの姿もごまかすことなく作者は描いている。確かに困難なことだろう、だが、それを見つけて、自分のものとすることが、即ち大人になると言うことなのだ。最終話の事件の中で、魔美は自分の今果たすべき役割や大人としての責任感を学習する。自分の生きる意味を確立し、それを日常の中で実践していくためには不可欠のことだろう。この物語の中で、これから彼女が生きていくための人生の意義が見つかると言うわけではない。それはそう簡単に手に入れられるものではない。これから日々の努力をずっと重ねて、日常の中で自分の力で手に入れるべきものであると、作者が言っているようである。最後のシーンは特に示唆的である。物語の中で、一度彼女は画家である父親の絵の価値に疑いを持つ。まだ生きる意味を自分で持たない彼女にとって、尊敬する父親の、その生きる意義であろう絵の評価は、まさに死活問題であるのだ。その疑いを自身の努力と働きでもって払拭し「パパの絵、最高!!」と叫ぶ時、これからの日々の中でこうして培った責任と努力でもって彼女自身の生きる意義を見つけだし、もしもそれへの確信が揺らいだとしても、また自分で回復するであろうということを、読者はほとんど確信できるだろう。

 このように「エスパー魔美」は、ビルドゥングス・ロマンとエブリデイ・マジックとの間でほとんどぎりぎりのバランスで成り立っている。魔美の成長度合いからして物語はあそこであのように終えるしかなかったであろうし、主人公(そして読者)の年齢設定からすれば、扱っている主題とお話のバランスも絶妙の所でかろうじて保っているのだろう。しかしその危うさかげんにも関わらず、このマンガからは随分楽しそうに描いている作者の息遣いが感じられるようだ。何にも増してそのことこそが、この作品を類稀なる傑作としているのだろう。

(2004/7/22)

 
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