日記のようなもの
2004/7
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雨の中の猫
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7/28 「オードブル動向」
 
■ しかしそれには、もちろん、罠がある
 
 ランチにフレンチを食べに出かける。まだ一度しか行ったことのないレストランである。しばらく前から、わたしの中でひとつ引っかかっていたところのある店である。上手くは説明できないが、どうも評価が確定できないのだ。以前行った時は、味その他についてなかなかよい感じがした。だが、同時にどこか小手先でごまかされているような雰囲気もあった。このような感覚を受けさせられるレストランは難しい。実際に騙されているかはともかくとして、そうした第一印象の飲食店は、たいていどこかになにかの問題があることが多い。もちろん、それが料理にあるとは限らないのだが。

 わたしは飲食店を評価する時、最低三回は行くことにしている。正直に言えば、そんな必要はない。たいてい一回訪れれば十分である。八割方のレストランは、三回行ったところで、一回目に下した評価から何も変わることはない。多少説明が詳しくできるという他、あまり得るものはない。それに残りの二割にせよ、初回の来店で、これはまだ十分評価できていないということが確実にわかる。合理的なことを言えば、それで初めて二回目、三回目と行けば評価には事足りるだろう。

 だが、ある種の礼儀の問題として、わたしは最低三回必ず訪れてから評価を決めることにしている。もちろん、自己満足といわれればそれまでである。だがまあ、そのくらいしてやってもいいのではないかという気がするのだ。自分が食を探求する上で、それもなにかの役には立つだろうとも思う。何より、初回に下した評価を(よい意味で)裏切って欲しいと期待する気持ちがどこかあるのは否めない。

 なので少なくとも三回来店した後に、自分の態度を決めている。昼の営業をしていれば、ランチとディナーの両方を、その三回に含めている。例えば最初が魚のポワレなら、次はシチューや肉の焼きものというように、そのたび傾向の違うメニューを食べる。可能な限り味覚がはっきりしてるようなときに店にいく。数時間程度は煙草も吸わず、口に残るようなものは食べない。シャンプーやリンス、洗顔料や歯磨き粉も、同様使ってから時間を空ける。整髪料はなるべく使わない。ここまですると、昔ほどではないものの、かなり精密に味がわかる。何よりその日の体調がよいことが、一番感覚に作用するようだ。

 そうした準備を下敷きにして、出された皿と格闘する。美観その他はまず置いておいて、何よりも味が重要だ。だが一言で味と言っても、料理には無数の味わい方が存在する。物語にさまざまな読み方が許されているようなものだ。ことレストランを評価する場合、中でも最も重要なのは、出されたままに味わうことだ。このように食べて欲しいと料理人が組み立てたとおりに、まず味わってみないと何もわからない。好きなように食べればよいのかもしれない。くだらないこだわりなのかもしれない。けれども同様礼儀の問題としても、わたしはそのように食べることにしている。もちろん素材の質を見たり、あるいは組み立てを調べたりするために、その一部だけを口に含めることもある。ソースを舐めたりすることで、何かつかめることもあろう。しかし、意図されたとおりにそれに向かい、自ら味の仕掛けにはまり、その中からもがき出ようとすることで初めて料理人の力量がわかるのだ。組み立てられた味の仕掛けも読み取れる。

 そんなわけで、この店への来店は二回目になる。前回は肉料理を頂いたので、今回は魚料理を頂くことにする。オードブル、スープのついたランチコースにする。最近この手の店のランチコースでは、オードブルにたっぷりとした量のものを出すのが流行りになっているようだ。たいていのお店で、ほとんどメインと変わらない分量のものがオードブルとして出される。もちろん品目は前菜とするにふさわしいものだが、ややサラダに近く野菜を多めに使いメインの具材自体も大切りで出されることが多い。ディナーなどのロングコースの序盤で出される、ごく少量づつ多種類提供されるオードブルとはそもそも発想や食事全体に対して果たす役割が違うようだ。身体をさわやかにさせ、胃腸の働きを活発にさせ、また味覚・嗅覚をはじめとした感覚を刺激し、食欲を増進させるという、いわゆる前菜としての役目ばかりでなく、ショートコースの中の一皿として、ある程度食欲を満足させるという働きも担っている。実はこうした「オードブル」をランチに出すのは、それほど奇異なことではない。南ヨーロッパのあたりをはじめとして、世界中のさまざまな料理体系の中ではしばしば見受けられる形である。それが短いコースのランチを出すようなフレンチやイタリアンの店舗の間でしばらく前から流行り始めているのは嬉しいことだ。ただとってつけたような前菜や、あるいはなにかのおまけのようなサラダを出されるよりも、よほど楽しめる。

 だがそこには、もちろん、落とし穴があった。

 バルサミコをベースに作ったソースが皿に模様を描き、新鮮な野菜が皿一杯にサラダ風に盛られている。上手に火を通された鴨が緑の中に埋め込まれるように散らされている。肉色から判断した限りでは、こうして冷製で食べるにはちょうどよいロースト加減だ。鴨特有のしっかりとした肉味が、冷たいままでも十分味わえるだろう。色彩的あるいは美観的なバランスはやや取れていなかったが、野菜と肉の味わい的なバランスも、見た限りではよさそうだ。全体の味をまとめるためにだろう、野菜のベッドの天井に半熟に焼けた目玉がひとつ落としてある。

 実はわたしは卵が食べられない。アレルギーではない。単に嫌いなのである。だが、恐らく普通の人が好き嫌いの範囲にあることとして想像できるよりも、はるかに、すさまじく、嫌いである。幼稚園の時から治らない。無理に食べさせられて、気持ち悪くなって吐いてしまったりしたことは何度もある。美食を志すものとして致命的な欠点である。卵料理はそれだけで一分野をなすほどの巨大な体系であるし、素材としても有数の美点を数多く兼ね備えたすばらしいものであるのだ。それゆえ何度か克服しようとしたが、いまだ乗り越えられていない、わたしの弱みのひとつである。

 とはいえ卵を使ったらなにもかもが食べられないというわけではない。だいたい美食以前に、それでは何も食べられない。むしろ卵を使った料理のほとんど全てが食べられる上、どちらかといえば好物といってよいものも多い。ただ肉料理で言うならば、ソースもかけずただ焼いて塩を振るだけといったそのままの、そんな卵料理が一切食べられない。具体的にはゆで卵、卵焼き、オムレツ、目玉焼き、スクランブルエッグ、生卵、その程度の卵自体が主役になっているものは、どうしても食べることができない。つなぎとして使われていたり、お好み焼きなどの粉ものや、あるいはケーキ・プリンの類は一切大丈夫である。アイスクリームもまったく平気だ。なぜゆで卵だとだめなのか、自分でもよくわからない。自分で料理をすることも多いし、実際卵もよく使う。ほとんど卵だということはわかっているが、プリンなど平気で食べられる。むしろ好きな料理である(別の理由、つまり甘いものがそれほど得意ではないため、量は食べられはしないのだが)。自分が食べることができない卵料理を、人に食べさせるために作ることもある。他の料理でつちかった料理カンとも言うべきもので、それなり形はつくれるが、実際まったく自信がもてない。聞いた限りおいしいとしか言われたことはないが(当たり前のことであるが、よほど根性が座っているか頭がおかしくない限り、作った本人に対してまずいとはなかなか言えないものだ)、味見すら自分でできないために(そしてしたところで味がわからないために)、どうしようもなく不安な料理である。だからよほどせがまれでもしない限り、卵料理を作ることはない。実際作って自分で食べてみたこともあるが、到底食べられたものではなかった。それはわたしの卵料理の技術の問題であるのか、それとも嫌いゆえのことなのか、いまだわたしには分かっていない。なお、食べられないのは鳥の卵に限ったことで、魚の場合は問題にならない。亀など爬虫類は浅学ながら試したことがないために、よくわからない。

 したがって特に一見の料理屋では、うっかり卵料理を頼まないように細心の注意を払う。さすがにこれだけいろいろとレストランを巡っていれば、どんな料理に卵が使われているか、聞くまでもなくたいてい全部知っている。だいたい食べられないのはゆで卵やら目玉焼きと、卵を使ったもののなかでもごく一部にだけ限られるのだ。あとはそれを組み合わせているものを避ければよいだけのことだ。危ないのは創作料理のたぐいで、たまに意表をつかれるが、それ以外ではまず間違えることはない。かつて犯した過ちのように茶巾寿司に引っかかることももうないだろう(その存在自体は知っていたのだが、まさかおせち料理の中でめぐり合うとはつゆも思っていなかったため、うっかり口に入れてしまったことがある)。

 だが、油断した。サラダに半熟の卵をあわせるのは定石である。スクランブルにせよ目玉焼きにせよ、あるいはポーチドエッグにせよ、どの場合もごく半熟にしつらえて野菜に絡めさせるのだ。鴨の前菜というのを聞いて、サラダ仕立てというのが頭から抜けてしまったために、まったく想像から消えていた。

 うっかりとして、あるいは故意のこともあるのだが、こうして食べられないものを頼んでしまった場合に、とるべき道は二つある。たいていの場合はわたしは食べない。押し付けられる人がいるならば、皿ごとでも卵だけでも押し付けてしまえばよいし、そうでなくとも卵だけをより分けられるような料理はそれだけ残せばよいことだ。分けることさえできないならば、いっそ全てを残してしまう。

 だが食べざるを得ないこともある。自分の下した評価として、尊敬に値する料理人が作ったものの場合は礼儀として食べないわけには行かない。そうしたごく一部のすばらしい料理人には、わたしは最高度の敬意を持って接することにしている。出されたものを残すのはもってのほか、ちゃんと味わえる自信のある時でない限り、その店自体行かないことにしているレストランもある。逆にそうでない店舗の場合、特にひどいものを出されたときなどには、わざと残したり食事中にタバコをつけたりしたこともある。

 それ以外の場合としては、プロの料理人ではない人が、わたしをもてなそうとして、嫌いであることを知らず卵料理を作ってしまった場合である。やはり礼儀として食べざるを得ない。もともと演技は上手い方なので、あまり顔色を悟られず、何とか飲み込むことはできる。味わっているふりもする。もっともあまりに量が多かったため、精神力が途中で尽きてしまったことはある。卵だけをわたしが食べられる限界は半個がせいぜいなのである(卵それ自体が主役の料理を除き、一人分が半個以上あるメニューなどまれであるのだが)。

 今回は店を知ろうとして、そのために頼んだ料理である。この料理人に敬意を払う価値があるかどうかはまだわからない。だが最終的な評価を下していない以上、それまでは最高度の敬意が払われねばならない。これはわたしのプライドの問題である。くだらないことではあるが、わたしが自分を保つために必要なことなのだ。

 したがって野菜やソース、鴨自体の質や味、なされていた仕事を見たうえで、覚悟を決めて卵を食べた。ナイフでやや大きめの一口を切り取り口に入れる。ほとんどが白身である。入れた以上味わってみなければならないのでしっかりとかみしめ味を見る。やや淡白で、卵にしては少し水っぽいようだ。クセは少ない。アクをあまり感じないので卵としては上質のものなのだろう。

 次に黄身を潰して、流れ出たものに野菜や肉を絡めて食べる。もちろん、こうして食べられることを意図して作られた料理であるのだ。やや白みがかった周辺から、中心に向かうにつれ濃い桃色に変わっていく美しい鴨の切り口に、色の変化がわからなくなるほどたっぷりと黄身をまぶす。少なめにソースをつけて、野菜と一緒に口にほおり込む。半熟とは言え一度熱を通された、卵の黄身はやはり濃厚で特有のにおいが口腔粘膜全体に広がる。舌ざわりは濃いクリームに近い。肉全体をかみしめて鴨の味を期待するが、やはり黄身があまりに強く、まったくそれがわからない。全てを塗りつぶすような卵の味の中で、かろうじてバルサミコの味がわずかにわかるという程度だ。

 これを繰り返すうちに、黄身はほとんど食べてしまった。白身が半分ほど残っているが、もはや精魂尽き果てて、そちらは残すほかはなかった。卵の味がまったくわからないものが判定しているので、これを料理としてどう見るか、まったく公平ではないし、また正直なところ正確でもないとは思う。だが、いくらサラダにあわせるのが定石とは言え、またいくら肉としてはクセも味も強い鴨とは言え、淡白になりがちな冷製肉の味わいを、黄身とからめさせては殺してしまうのではないだろうか。確かにサラダに温かい半熟卵は定石だが、脂身を除いた鴨にはあわないように思われる。あえて卵をからめるならば、肉も温かくするか、あるいは脂の多い合鴨を使うべきではないだろうか。恐らく鴨特有の血なまぐささを殺そうとしてのことでもあるだろうが、冷製にすることで十分に、それは対処できているように感じられる。それにそのクセそのものが、鴨を食べる魅力でもあるのだ。

 水を飲みスープをすすり、またパンを口に入れた上でも、舌にからみついた卵の味が消えた気がしない。恐らくは精神的なものであろうが、いつまでもその味が身体に残っている感じがするのだ。メインはまったく味がわからなかった。ものを味わう上ではわたしにとってほとんど最悪の体調だったと言えるかもしれない。お店の評価など、する以前の問題になってしまった。結局今回は、ノーカウントとせざるを得まい。非常に残念なことである。コーヒーを飲んでもそれは消えなかった。帰って念入りに歯を磨いたがそれでもいつまでも不快に残った。結局次の朝起きるまで、卵の味は消えなかった。

 

 

7/29 「胃もたれ、揚げ物、その他」
 
■ 胃もたれ
 
 朝起きてユリシーズを読む。18挿話。独白。朝から読むようなものではないことに気がついてすぐにやめる。それでもちょっとは読んでしまったので、まるで二日酔いの朝にうっかり油気の多いレバーソーセジでもかじってしまったような気分になる。ジョイスなど手に取るのではなかった。

 とは言え、ではどのようなものなら朝から読むにふさわしいか、ちょっと思いつかない。手元に本は山ほどあるが、あまり朝向きではないようだ。必然的に近いうちに読まざるを得ない本はいくつかある。だがどれも朝向きではない。近いうちに読もうと積んである本を見ても、ボルヘス、島田雅彦、筒井、小林信彦、メルヴィル、スタージョン、ナボコフ、なんと言うか、朝から吐いてしまいそうだ。なんだろう、二日酔いの朝にほんとうに軽く、お粥なり精進のすまし汁なりをすするといった、そんな風情の本はないものか。OEDなり何なり辞書をぱらぱら読むほうが、朝はまだ胃もたれせずに楽しめる。

 
■ かにときのこ
 
 もう結構長いこと料理をしていない。このままでは腕がなまってしまうだろう。まあ、それもかまわない。

 だが愛着のあるメニューというのはあるもので、せめてそうしたものだけは作り方を忘れずに、記憶しておきたいと思う。わたしの記憶力は残念ながらあまりいいとはいえない。大切にしておきたいことはなにもかも忘れてしまう。音も色も匂いも。

 かつて得意にしていたメニューにかにときのこの春巻きがあった。とある中華レストランのメニューを盗んだものだ。そこの料理はほんとうにおいしく、ちょっと真似のできないものであった。これも味を再現することはできなかったが、自分なりに組み立てなおして、違う料理として仕上げたものだ。食べさせた相手もそのレストランも今はもうない。

 軽く火を通したかにの肉を用意する。ベストは殻ごと焼いて、それからほぐすのが一番味がよい。蒸すのは次善だ。面倒ならゆでてもいい。魚屋のあるスーパーならゆでてほぐしたかにの身が売られているだろう。それだってこの際いい。缶詰とカニかまぼこだけはやめて欲しい。かにの種類は問わないが、肉の味がやや濃いもののほうがおいしくしあがる。かといって独特のにおいのある毛ガニはやめたほうがいい。旨いかにだが、この料理にはあわない。ワタリガニとかの安いかにの身がいい。量は少なめ、味が出ればそれでよい。かさで言えば、マッシュルームの1割程度で十分だ。

 つぎにマッシュルームを用意する。ブラウンが手に入ればその方がいい。白でもかまわない。大ぶりの方がいい。傘の開いた大型のが手に入るなら言うことはない。

 石突が残っているなら落としすぎない程度に落とす。軽くほこりを払ってやる。気にならないたちなら、水洗いはしない方が旨い。2センチ角くらいの大ぶりに切ってやる。決して細かくしすぎてはならない。量は大目。春巻きのほとんどがマッシュルームくらいでいい。

 ナッツを用意する。お菓子作りにつかうようなものでいい。クルミの苦味の多少あるやつが一番おいしい。これは細かくぶつ切りにする。ただし潰してしまってはならない。量は少なめ。

 にんにくを用意する。必ずひとかたまりで皮ごと売っているやつを買う。皮ごとざっと洗い、軽く油を引いた鉄板にのせてオーブンでそのまま焼く。火が通ってから必ず皮は剥く。その前に剥いてしまってはだいなしだ。皮を剥いたらボールに入れて潰す。量は少なめ、具全体から軽く匂う程度でよい。

 しょうがを用意する。市販の酢漬けは食べられたものではないので、自分で酢漬けを作るか、生のしょうがを使う。嫌に表面が黄色っぽいものは味が落ちるので買ってはならない。筋切りをした上で、おろさず、霜のように細かく刻んでボールに入れる。量はにんにくやナッツと同程度。ナッツはこのふたつよりやや大目でもよい。匂いの強さをそれぞれ見て調整する。

 季節の野菜。何でもよいが、水分の多い野菜は避けること。においの強い、クセやアクのある野菜がよくあう。アスパラガスが最高と言える(ただし、グリーンアスパラガスに限る)。アスパラを使うなら、穂先の柔らかいところは除く(他の料理にでも使えばよろしい)。太目のものが望ましい。根元の硬いところを、マッシュルームと同程度に切ってやる。皮は縦縞模様に半分だけ剥いてやる。他によくあう野菜として、ニラ、ネギ類、ししとう、ピーマン、しそ、さやいんげん、しいたけ(生・あるいは干したものをもどす)、オクラ、ブロッコリーあるいはカリフラワーの茎(花の部分は使ってはならない)、菜の花、水分の少ない硬めのにんじん、ごく小ぶりの青梗菜(全部の背丈が8センチ程度のもの。よく見かける15センチにも育ったものは贋物である。中国人はあんなに育った青梗菜を食べはしない)、空芯菜、さやごと食べる小ぶりのそら豆、などなど。本来が春巻きである以上、春の野菜に限るべきなのだろうが、あまりそんなことにはこだわらずに作った覚えがある。気にしないことにしよう。トマト、ナスの類はあまりあわないと思うが、試してみるのも一興であろう。

 必ず一種類以上、身の厚い固めの青野菜(アスパラ・オクラ・ブロッコリーなどの茎・豆類、なければピーマン)と、一種類以上のにおいの強い葉野菜(ニラ、ネギ、ワケギ、しそ、にんにくの芽、ただしにんにくの芽を使うときには、にんにくは入れない方がいい。また量も少なめに)を入れること。前者はアスパラで説明したようにマッシュルームに合わせて切る。後者はネギ類ならみじん切り、しそは筋に垂直に針のようにする。非常によくあうので、できれば必ずしそを使いたい。

 野菜の量もさほど多くなくていい。匂いが出ればそれでいい。かにと同程度か。

 これらをボールで混ぜてやる。混ぜやすくするために、ゴマ油をほんの少量たらしてやってもいい。味付けもこのときに行う。

 味付けは、化学調味料の使われていない調味料を必ず用意する。まず醤油。中国の物が手に入るならそれでもよい。やや少なめ。ほんのり全体に色がつく程度でよい。

 酒、日本酒か、紹興酒のよいのが手に入れば使う。もしあるならマオタイでもいい。洋酒は一般的にあわないが、ジンの種類によっては可能性はあるかもしれない。量は醤油と同程度。

 オイスターソース。化学調味料の入っていないものを探すのは至難であるが、ないわけではない。数年前、広島の牡蠣業者が、日本の牡蠣に関する知恵を集結させてすばらしいオイスターソースを作り販売した。中国のオイスターソースとはややかけ離れてしまったが、牡蠣の匂いがぷんぷんする、すばらしいものであった。一年でプロジェクトが潰れたのか、その年以来見たことはないが。まあ、これ以外にもオイスターソースで化学調味料を使っていないものがないわけではない。もし、化学調味料が入っていないものが見つからないなら、絶対に使わないこと。その分やや醤油を多めにする。

 だし汁。使わないこと。ただし、オイスターソースを使わないなら、昆布で軽めに取った出汁をほんの少し加えてもよい。カツオブシなどの出汁は使ってはならない。もし、貝類や、あるいは乾貨で出汁をとる方法を知っているなら、それを使ってもよい。どちらにせよ、水っぽくならないように注意すること。

 豆板醤、またはコチュジャン、または唐辛子。中華料理のアレンジであるはずなのに、なぜか中華の素材である豆板醤を使った場合よりも、韓国のコチュジャンを使った場合の方が味がよい。不思議なことである。どちらもなければ唐辛子を使う。量は、一口食べたあと、しばらくしてからやや辛味を感じるという程度。豆板醤を使うならやや少なめ。コチュジャンは多めに使うほうが味がよい。唐辛子で代用する場合はごく少なめ、種と軸を除いて細かく叩き、一旦胡麻油で軽く練ってから加えること。そのまま加えると味が壊れることが多い。

 これらの材料を軽く混ぜてから、春巻きの皮で包む。皮を自分で作れないなら、あるいは面倒なら、市販のものでもかまわない。この手の巻物の場合はみなそうだが、目分量で中身はこのくらい、と思える量の半分程度を包むこと。中身の量と思える量そのままに包もうとすると多すぎてうまく包めなかったり、あげたときに破れたりする。

 包む時には、必ずぴっちりと、中の空気が漏れないくらいのつもりで包む。

 通常の温度の揚げ油を用意する。油はこの際なんでもいいが、常識的にあう範囲の油にしてほしい。オリーブオイルはNGである。

 適温になったら揚げる。途中で、揚げ箸を使ってかるく回してやるといい。火の通し加減はごく軽め。皮に火が通ればそれでよいくらいのつもりで。カニには既に火が通っているので、それで十分である。皮が小麦色になってしまったら揚げすぎである。皮の歯ごたえとしては、バリ、とか、パリパリ、あるいは、パリ、だと完全に揚げすぎ。クリスピーになってしまってはいけないのである。サク、くらいの歯ごたえの、しっとりとした感じを保っている程度が望ましい。

 揚がったら、クッキングペーパーの上にとって余分な油を吸わせる。それから熱いうちに食べること。味の濃さには好みがあるので、物足りないという人には塩を用意しておいてやるといい。普通は何もつけなくても十分と思われる。

 この料理の眼目は、春巻きの皮に包まれて、その中の具が蒸し焼きになることである。とくにマッシュルームというのは、火を通すと多量の水分をだす(そのため、他の具の水分を抑えているのだ)。そのマッシュルームから出た水分が、カニ、野菜、それからマッシュルーム自身をからめながら極上のスープを作る。ナッツから出る油分もそこに加わる。さっくりと揚がった皮に歯を立てると、そこからアツアツのスープがジュワっと流れ出てきて、口の中全体にこのスープの芳香が広がるのだ。まず感じられるのは、野菜の匂いだろう。ニンニク、ニラ、ネギといった、ややクセのある、しかし香ばしい香りが一息に駆け抜ける。その後に柔らかく甘い匂いが広がる。何の匂いだろう? そう思うときには既に舌が味としてそれを捉えている。旨みは濃いし、また各種の素材がとりどりの味を持ち寄っているが、それを支えている味があるのに気がつくはずだ。それはマッシュルームの味である。けっして派手ではないが、しっとりとした柔らかい、母性的な味。においもまた柔らかく、土臭くさえある。この味の上ではじめて、それぞれが個性豊かな、ひょっとすると個性のありすぎる、さまざまな素材が映えるのだ。旨いがややクセのあるカニの旨み。香ばしいけれども青臭くすらある野菜たち。ナッツは豊かな苦味と油の甘味が楽しいのだが、それは同時に舌を疲れさせる味でもある。それらを支える力になっているのが、このマッシュルームなのである。それではじめて全体の味の組み立てがわかり始める。ちゃんとしたものを使っているなら、春巻きの皮からは穀物特有の旨みすら感じられるだろう。それを飲み込むと、次に広がるのはニラやニンニクの匂いとは違う、別の香ばしさである。ナッツとゴマの匂いだ。この匂いは食欲をさらに掻き立てる。そうしてまた一口、食べるうちにさまざまな味の饗宴が楽しめる。

 作りながら揚げたてを食べていた時のことを思い出して書いていたが、思い出したら久しぶりに食べたくなった。揚げ物は一般的に重たく、最後にはどんなものでも鈍重になってしまうのだが、これはそういうところがあまりない。良くできた料理だと思う。最後に、この料理はマッシュルームを食べる料理である。ぜひ、マッシュルームはできるだけよいものを使って欲しい。

 

 

7/30 「定規を疑う」
 
■ 線形性の喪失
 
 この日の記録は、実際には8/1深夜(日付がすでに変わっているのでほんとうは8/2である)に書いている。だから厳密には日記ではない。いちいちこんなことを書いていたりはしないが、この日記の過半数は当日には書かれていないだろう。たいていが一日二日が遅れている。全て一様に二日遅れで書かれているのなら、まだ擬似的には日記に近いものと言えるのかもしれないが、これのように、翌日の日記(7/31)はその日付通りに書かれており、順番が入れ違っているところも多い。はたしてそれで日記と呼んでよいものだろうか。だが、世の日記の何割かは、こんな感じに違いない。
 
■ 辞書の時間
 
 人と会う。といっても定期の読書会に出かけただけである。会自体の内容は既に忘れた。そう言えばこれも時間に関する話だったはずだ。ドラえもんは出てこなかった。代わりにアンジェラの鐘とセックスのことばかり考える女とブルームが出てきた。ハロルドではなく。

 それはともかく、発表者にせよ他の参加者にせよ、みんな時間はまっすぐなものと考えていることには驚かされた。わたしにはとてもそんな風には見えないのだが。物理学がなんと言うかはどうでもいいが、もうちょっとたちの悪いものではなかったか。まっすぐになっているものと感じる人がいることは、もちろん知ってはいたのだが、まさかみんながみんなだとは思いもしなかった。まだ幼い頃よく遊んだ兄弟がいたが、この読書会での驚きと同じような種類の感情を、彼らに感じさせられたことがある。彼らはほんとうに仲のよい双子だった。わたしを含めて三人で遊んだことが多かったが、兄弟でくっついていることも多く、また二人にしか通じない言葉で語り合い、子供心に嫉妬を感じた覚えがある。二年ほどその関係が続いただろうか、幼稚園を出てしばらくするとほとんど会うことさえなくなった。その頃に誰かの話から、二人が双子どころか兄弟ですらないことを知った。数年の間自分の世界の前提として(その世界がいかにちっぽけなものにせよ)、ずっと信じ込んでいたことが根底から覆される気分だった。騙されていたのかはわからない。悲しみや怒りよりも、むしろ興が醒めてしまったような、そんな種類の驚きだった。読書会の人々がみなあたりまえのようにそれがまっすぐだと信じていたことにも、どこか似た種類の驚きがあった。

 しかし時間とかその他の日常的なことがらで、わたしの感じていることが人と意見があわないときには、たいていわたしがおかしいのだろう。今までずっとそうだったし、これからもずっとそうだろう。それにそれでだいたいうまくいくのだ。わたしは一人でだれにも言わず、自分の感覚を信じておけばそれでよい。

 実際の話、いろいろ思い返してみたのだが、時間について何かを言ったたいていの人は、それがまっすぐだと述べている。もちろんいろんなバリエーションはあるにせよ。ドラえもんでも時間の軸がたくさんあったりねじれたり、その中を行ったり来たりもしはするが、そのひとつひとつを見てみればまっすぐであることには変わりない。途中で枝分かれしていても、枝のそれぞれはまっすぐである。アインシュタインにせよ同じようなものだ。軸として、つまりまっすぐなものとして捉えていることには変わりない。スネオのように意地悪そうなアンリなんとかというフランス人も、根本的にはいっしょのことだ。個人個人で早くなったり遅くなったりしもするが、あるいは別の言い方をするなら、そのまっすぐな時間の軸がところどころで太くなったり細くなったりするのだが、時間自体がまっすぐであることには変わりない。仏教の古い経典や最近の物理学者の一部が言うように、飛び石のように流れてるにせよ、結局その石の切れ目が細かすぎ、人間に感じられないとするならば、それはまっすぐであることと変わらない。思い出せる限りでは、すべからくみな時間はまっすぐであるように感じられているようだ。

 するとわたしがほんとうにおかしいのだろうか? だが、みんなが言うように、途中で枝分かれしたりくるくる回ったり太くなったり細くなったり顕微鏡で見たら点線だったりするにせよ、そんなまっすぐな線として描けるようなものなのだろうか? わたしにはどうしてもそんなたちのいいものには思えない。まっすぐな時間を小説を頭からまっすぐに読むようなものとするのなら、確かに時間にはそういうところもあるのだが、わたしの感じている時間は辞書のようなものである。

 まっすぐに小説のように流れるのもいいのだが、小説にはしばしば分からない言葉も出てくるだろう。そういうときには辞書を引く。目的の語のページを開き説明を読む。もしもその説明のなかに、またわからない語があったなら、次にはその語のページへ飛ぶだろう。ページに打たれている番号とは関係なく、一冊の本をでたらめにめくっていることになる。一度に辞書の二箇所を同時に読むこともある。そのうちに本来辞書を引いた目的とは関係のない項目に興味を引かれ、そこの項目や派生語や、あるいは同義語、例文などを調べたりもする。気がついたらしばらく前に引いた項目に戻ってきたりすることもある。こんな風に時間がながれることがよくある。たぶんわたしだけではないだろうのに、なぜみんなは気がつかないのか。

 

 

7/31 「生ける死者」
 
■ それでもベンヤミンは神に怒りを覚えなかったのか
 
 やや調子は下降気味。

 それも仕方のないことなのだろう。こうして上下を繰り返しながら少しずつ普段の調子を取り戻していくのだ。株価と同じようなものだろう。もしも以前の状態にまで戻れるのならばだが。

 あまり何もする気もおきず何もしないままに一日が過ぎた。この繰り返しで年老いてきたのだし、この繰り返しで朽ちゆくのだろう。あとどのくらい生きていなければならないのだろうか。そう長くはないような気がする一方で、まだまだ続いていくような気もする。

 過去のどこかで、わたしは一回死んでいる。

 わたしには到底誰も救えはしないし、誰もわたしを救うことはできない。わたしが何かを言ったとしてもそれが誰かに伝わることはない。誰かが何か言っているとしてもわたしにその人がわかることはない。人のつながりはもはやない。どうしても誰かに伝えたいことがあったとして、それがほんとうに伝わっているかを求めるならば、無限の連鎖に落ちていくしかないのだろう。心が伝わるなどということはこの意味において絶対にない。社会や人間関係などというものは、それぞれの個人が自分の内に写し取った他人のマネキンを相手にしているようなものだ。そう考えた時、わたしはもう人間でなくてもいいと思った。

 なんと悲しいことなのだろう、人と人とは手を伸ばしても絶対に届かない距離に置かれているのだ。そして誰もがひとりひとり、それぞれ別個に孤独であるのだ。何を伝えることもできない、ただ自分がここにあることだけを示すことしかできない生き物であるのだ。みんな同様苦しむのだろう、だがそれに対しても誰もどうしてやることもできない。それぞれの地獄の中にいるものに対して礼を尽くそうとするしかない。自分だけが一人なわけではないのだから。せめて自分ひとりで苦しむことにしよう。

 それを感じ始めた頃はまだ、それでもどこかに救いがあるのではないかと思っていた。言葉自体はあきらめたとしても、どこかに何かがあってくれると期待していた。そしてどこにもないことを、やはりどこかで分かっていた。セックスにそれを求めたこともある。その間のほんの一瞬にわずかに救われたような気がしたのだ。性交自体の興奮とはほとんど相容れないような感覚なのだが、何かしらわたしを安心させるものが、確かにそこにあったのだ。そのほんのつかの間の安心を求めて、半ば狂ったかのようにいろんな人に声をかけた。けれどもその安心感が去った後には、常にそれまで以上になにもかもから突き放された。結局一人ぼっちでしかないことを確認しているに過ぎなかった。

 そのようにしてわたしは死んだ。後はただ抜け殻だけの死者として、動いているようなものである。そのときに抜け殻も死んでおくべきだったのだろう。こうして死者として生きているのはみじめである。常に腐臭を撒き散らし、自分ではそれをどうすることもできない。ここにいるのは中途半端な死に損ないの蔑むべきゾンビでしかないのだ。だが生ける死者としての苦役から、解放される日も遠からず来るだろう。

 
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