日記のようなもの | ||||||||||
2004/7 | ||||||||||
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雨の中の猫
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7/1 「愚かなネズミ」 | ||||||||||
■ 頭の悪さについて | ||||||||||
わたしは頭が悪い。そして愚かである。わたしから見て頭がよいと思える後輩が、自分が馬鹿であることが許せないと言っていた。彼女の目にはいったいどれほど賢い世界が映っているのだろう。わたしには想像もつかない。
私見だが、それぞれの個人にはその個人の生活に見合った頭のよさというものがある。その人に必要なだけの頭のよさと言ってもよいかもしれない。もしその必要量にその人の頭のよさが満たないならば不幸にしてその人は愚かだということになり、またそれを越える頭のよさを備えているならばその人は賢いということになる。頭の悪さと愚かさは違うことだ。 不幸にしてわたしは頭が悪く、その上過分な頭のよさを求めている。わたしにとっては自分があまり悩まず苦しまずに生きていくだけの智恵が欲しいというだけなのだが、それはわたしの頭の力量をどうやら超えているようだ。それだけの頭のよさがないために、木箱の迷宮の中でいつまでもチーズにたどり着けない愚かなネズミのごとく常に苦しんでいる。不幸なことだ。こうしてわたしは愚か者になった。 |
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■ 書き割りを描く、積み木を積む | ||||||||||
こうしていることに現実感がない、そんな感じを随分以前から感じている。どこかに台本が書かれてあり、見えないところで誰かがキューを出している安っぽい書き割りの舞台のような感覚である。程度に差はいろいろあったが、もう五年は昔からそんな感じがしている。見えているものに連続した匂いが感じられず、触ったものには色がないようなところがある。今の瞬間と、その前の一瞬、そして今の次に来るべき時間、そのそれぞれが全部繋がっていないような気がする。映画のフィルムをじかに見ているようだ。あるいは四コママンガのようだ。
一方でやたらと現実感のある夢をよく見る。ただ、自分でちゃんとわかっていないので正確に言葉にできる自信はないが、この夢の現実感というのは、起きている時に本来あるべき現実感とは違ったものだろう。そうであることしかできないような生々しさがある。まとわりつくような、逃れられないような、ぎりぎりそうであることしかできないような。やはり言葉が見つからない。芝居を見ているような感覚は夢にもある。同じようなものなのになぜ一方で現実感がないものと感じられて他方で現実感として感じられるのはわたしにはわからない。そうとしか言いようがないところがある。 起きている時の現実感のなさについて、それを感じ始めた頃から長らく異常なことだと思ってきたが、しかし、そうではないのではないだろうか。あたりまえに普通にあるものとして日常を捉えていたが、わたしがひどい勘違いをしていただけではないだろうか。 日常とは何も考えずともあたりまえにあるものなのではなくて、一人一人が自分のために、毎日毎日積み木を積むように組み立てているものなのではないだろうか。そうした日常がさも自然にあたりまえに思えたのは、それをわたしのために組み立ててくれた人がいたからで、要するにわたしが幼稚だっただけなのではないだろうか。 これが正しいかどうかはわからない。だが、このように考えると、日々の現実感のなさにひとつ納得がいった。日常生活が本当にわたしの前にあるものとして、あたりまえに用意されていることを期待するのは、子どもじみた甘えだったということに過ぎない。わたしは自分で自分の日常を、現実にあるものとして組み立てようとしたこともない。だとすれば現実感がなくなっていくのもあたりまえである。それだけのことだ。 だが、では、どうすればいい? わたしは積み木の積み方も知らない。 |
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7/5 「ある健忘喫煙者の独白」 | ||||||||||
■ もの忘れ | ||||||||||
頭が悪い上、かなりいいかげんな性格なので忘れ物が多い。どこかに何かを忘れてくることも少なくないが、自分の部屋に何かを忘れて外出してしまうことが一番多い。小学生の頃から治らない。忘れ物の罰で立たされたことは多い。先生もついに立たせるのを断念した覚えがある。立たされる方はとっくにあきらめていて悪いとも思っていないのだからどうしようもない。一日中立たされっぱなしではもう罰なのかなんなのかわからない。そしてまたもの忘れも多い。
最近、思い出すたびに次に出かけるときは忘れないようにと思うことがある。あるのだが出かけるときには必ず忘れる。今も当然思い出せない。何か持っていく約束があったということだけ漠然と覚えている。相手に聞けばよいことだがそれもままならない。だってバカみたいじゃないか。 こんなわたしでもまず忘れないものが二つある。一つは財布であり、命にかかわるのでかなり気をつけて忘れないようにしている。もう一つはタバコである。なかなかのヘビースモーカーであり、日常タバコは欠かせない。ニコチンの禁断症状は相当恐ろしい。 ところが、ついに今日タバコを忘れた。急いでいたので途中で買うこともできなかった。学校で買えないことはないのだが、購買部にあるのは弱い種類ばかりでわたしが吸うに耐えないのである。ショートホープ以上でないと紙を丸めて火をつけているのと変わらない。 普段なら授業をサボって帰るのだが、自分の担当箇所がある以上それもできなかった。案の定だんだんと嫌な気分になり、胃がもたれているような感じがし、教室の隅でアメーバのように静かにとろけていた。やがて授業は終わったが、すぐにどこかでタバコを買って吸えばよいことなのに、なかなか身体に力が入らない。ほとんど快と不快の臨界的なところを空中遊泳するかのようによろよろと家に帰った。途中でタバコを買う力もなかった。部屋でタバコを吸うと、かえって気持ち悪くなり何もできず横たわった。 実はタバコを吸うようになったのは二十歳を越えてしばらくしてからである。吸うようになった理由はいろいろ思いつくが、どれもたいしたものではないし、吸うことの言い訳のために作ったようなところがある。ただ覚えているのは吸い始めて間もない頃、肉体的にも精神的にもへこたれる塾講師のバイト帰り、滋賀のベッドタウンの人一人いない深夜の駅で、誰もいないことをいいことにショートホープを一本吸った。全身に蓄積した糸くずのような疲労感が、やさしく糸を抜くようにほぐれていくのがわかった。以来ずっとヘビースモーカーの道を歩き続けている。 大方の喫煙者がそうであると思うのだが、やめようと思ったことはある。そしてやめる気になればいつでもやめれると思っている。大方の喫煙者と同じようにどちらも嘘である。だが、自分が本当にやめなければならない理由ができた時には、自分の何かをかけてもやめようと思う。 |
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7/8 「猫になりたかった日」 | ||||||||||
■ 猫になりたい | ||||||||||
草野マサムネではないが猫になりたいと思う。人に言ったら笑われた。それでも懲りずにいろんな人に何度も言っている。たいてい笑われるか、あるいはもうすでに猫のようだというようなことを言われる。わたしがなりたいのはこんなんじゃない。
でも飼うなら犬だ。たぶん死んでも猫は飼わないだろう。従兄弟の家で猫を数匹飼っている。見ていて確かにいいと思う、かわいらしいし、思わずかまいたくなるところがある。だが、見てると痛くもある。だから絶対に猫は飼わないし、従兄弟の猫もこらえてかまわないことにしている。 昔まだ両親と暮らしていた頃、犬を飼っていた。性格はまったく違ったが、ともに賢く仲のよい犬だった。二匹とも雄犬だった。猫とは違ったやり方で人懐こく、言うことをよく聞いた。わたしが小学校の一年生だった頃から大学に入るまでずっと飼っていた。大学に入り一人暮らしを始めて三年ほどで年寄りの方の犬が死に、もう一匹はそれから数年だけさみしく生きていた。犬はいい。素直にそつなくかまって欲しさを出してくれる。こちらもかまってやることに抵抗を持たなくて済む。 |
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7/10 「詩を書いたこと」 | ||||||||||
■ 詩でも書いてみようかと思った | ||||||||||
ふと、詩でも書いてみようかと思った。人間、暇になるとろくなことを考えないものだ。もちろんただ言葉を並べたものではなく、それが詩である以上、厳格なルールをもって書かれなければならない。それでまずルールを作るところから始めた。
1.自分のことを書いてはならない 一人称の代名詞を使ってはならないのは当然として、一人称の語り手を想像させるような表現を使ってはならない。例えば、何かに対する呼びかけ、語りかけ、従って二人称代名詞などもってのほかだ。次に主観の持ち主を想像させてしまうような価値判断、つまり美的判断。空が美しいなどと言えば、当然そこには空を美しいと判断した一人称の主観が想像されてしまう。子どもでもわかることだ。直接に自分のことと書かなくとも、自分自身の姿を投影しているとか、暗示しているとか思われるような表現も避けたほうがいいだろう。よって動物は全て使えない。器物でも危ないものがいっぱいある。精密な慎重さでこのあたりは望まねばならない。だいたいが自分のことを書いた詩などくだらないのだ。中也の詩の8割とホイットマンの10割は読むに値しない。 1.数学的な規則がなくてはならない 詩文である以上、文自体が数学的にできていなくてはならない。しかし、このことを考えるたび西欧語はうらやましいと思う。西欧語であれば脚韻を踏めばそれなり数学的規則になりうるからだ。というのは一般に西欧語は音節の種類が多く、そのため韻律によって使える言葉がある程度制限を受ける。しかし日本語は残念ながら、たまたま同じ音になってしまうほど音節の種類が少ない。この言語では韻を踏むのはたやすいが、踏んだところでそれほどの規則にはなりえない。かかる状況に脚韻に代わる数学的規則を持ち込むとなると、まず音的には全体の高低アクセントをそろえるのがよいだろう。各行厳密に同音節数とし、その音の高低アクセントの形が全てそろっていればよろしい。これだけではまだ弱いと思われるので、さらに母音も全行同じにしたら十分だろう。 この二つの音の規則は、実際のところ使い古されている感もあるのでさらに音以外の規則を導入するとよいだろう。音に対して視覚にうったえる規則があればなお悦ばしいのは確かだ。音数をどうせそろえるのだから、文字数もしっかりとそろえて、その各文字を画数に直した時に数字が魔方陣を描いているというのはどうか。実に数学的ではないか。画数が多ければ当然見た目に黒く見えるので、それが魔方陣を描いていれば紙の濃淡もまた美しいだろう。もっとも厳密に魔方陣とするなら同じ数が出現してはならないが、ひらがなは画数の同じものが多いのでそれは許していただく。一行20文字の20行でこれを行えばよいだろう。詩としては短すぎる感もあるし、なにより自分は正方形という図形はあまり好きでないが、この際目をつぶることとする。 1.日本語しか使ってはならない もっと規則を増やしてもよいのだが、多すぎてもつまらない。このくらいにしておこう。と、ルールを作り終えたのだが、ルールを作ること自体に十分満足し、結局詩などは書かなかった。それはそれでいいのだろう。 |
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7/11 「」 | ||||||||||
■ [更新]日記を借りてみる | ||||||||||
自分のサイトに日記のようなコンテンツを作ることにした。日記の中身はしばらく以前から書き溜めてはいたが、しかしそれをいざアップしようとするとなかなかに面倒であることに気がついた。数日分一度にレイアウトを切ってコードを書くならまだしも、毎日これはやってられない。もとより毎日書くはずはないのだが、それでもちょっとした短い文章を書き込みたい時にこれでは気が失せてしまう。
そこで日記スペースを借りてみることにした。簡単にアップできるのがこういうサービスの良いところだ。日記の中身と他のコンテンツとの関連をつけたいので、いずれ内容を本サイトの方にアップしないわけにはいかないのだが、ちょっと何かを書くにはよいだろう。時間のないときにも簡単に済ませられるよさがある。当面、最新の書き込みはこちらにすることになるだろう。 |
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7/12 「日付の困難」 | ||||||||||
■ 夢 | ||||||||||
昨晩イヤな夢をみたので寝ないことにした。経験上一度そんな夢をみたら数日続くのだ。内容は毎晩違うのだが。
そんなわけで今は午前6時である。夏休み前最後の授業が十時半からあるので喫茶店で時間を潰すとしても後3時間ほどはなにかをしていなくてはならない。 何を食べたかはさだかでない。何も食べなかったんじゃないかとさえ思う。会計を済ませてフレンチ・レストランを出るときに、料理がおいしかったので店の名前を聞いた。 普段わたしはあまりこういうことをしない。生まれつき頭が悪く人の名前や店の名前、いわゆる固有名詞がまったく覚えられないのだ。それで失礼をしてしまうことも多くなんとかしなければならないのだが、実際のところ余り困ったことと自分では思っていないのでいまだなんともなっていない。大学の読書会などでも参加者の名前が出てこずによくしかられる。もともと名前に興味がないのだろう。ただしこれは人を覚えられないのとは違う。人はよく覚えているのだ。ただわたしの頭の中ではその人は名前で整理されておらず、身長や体格、服装の趣味や声色といったもので記憶されているのだ。 そういうわけでほとんどと言っていいほど店の名前を自分から聞くことはない。聞いたところですぐに忘れてしまう。メモを取る習慣もない。必要な時には後で調べることにしている。名前を聞くなど例外中の例外と言ってよい。それほどその料理は印象に残ったのだ。 おいしいというのとは違う。むしろ味に関する印象はなにもなかったと言ってよい。においも見栄えもどちらかといえばあまりぱっとしない。だが、妙な質感があった。 おそらく子牛だろう、牧草を食べ始める前に落とされた子牛の肉は独特の澄んだ味がする。わたしはあまり好みではないが、牛肉料理のジャンルの一つとして珍重されるものだ。そうした牛肉の表面を固く焦がし、やや全体的に火を強めに通してある。わたしはむしろレア好きなのであまり評価しないが、柔らかいたんぱく質の甘みが味わえる火の通し方だ。それに適したように肉も薄く広く切り、軽く叩いてあるようだ。その粘土色と茶色の中間くらいに固くなった表面に、マデラかポートか、いわゆるフォーティファイドワインの類をベースにしたソースをかけてある。この種の酒には何年も寝かして濃厚な味わいにしたものもあるが、むしろこれに使われているのはいくぶん若すぎるくらいのものである。淡い味わいの肉を殺さないための配慮だろう。ソースには他に、別のパンで形が崩れるまでいため煮にしたシャンピニオンなど香草の類が使われている。これも全体的に香りを抑えているようだ。使ったバターも溶かした上澄みだろう。こうした料理になかばつきものの温野菜は添えられておらず、やや深めの平皿に、黒味がかった濃い紅色の澄んだソースに半ばまで浸って肉が寝ている。皿は一見するとデンマーク風の絵付けの磁器である。むしろさえない色合いと言ってよいような肉とソースの色彩から、磁器のつめたい白さが浮き出るように際立って見える。 もとより淡い味の肉を楽しむための料理である。鮮烈さを期待するようなものではない。だがそれにしても印象の薄いものであった。その薄さの中に奇妙な重さがあるのである。それは実体はつかめないが確かにそこに確固としたものがあるという風情の存在感で、喩えるならば自分の手のひじから先が見えないほどの濃い霧の中で、両手で支えなければ持てないほどの荷物を預けられたような重さである。それは正体をあらわさないなまなましさである。 食とは実際なまなましい行為である。そこに議論の余地はない。だが、だからこそ、食が美食であるためには、並び立たないような二重性を強いられつづけることになる。美食として食をするためには、ものを喰うというなまなましい行為のことを実際一度は忘れるほどの恍惚感がなければならない。同時にその恍惚感、つまり美的到達点、がすばらしいものであればあるほど、やがてはその快楽に意識はついていけなくなり、その最高点からなまなましい現実へと一気に突き落とされることになる。その落差たるやすさまじいものである。もっともだからこそ美食には価値があるとも言える。 この快楽の後の墜落感にも似たものをわたしはその料理に感じたのかもしれない。ひそやかにその姿を霧の向こうに隠し続ける、しかし圧倒的な現実感がそれにはあったのだ。わたしが店の名前を聞くと、店主は「オー・ルヴォワール」と答えた。一聴してフランス語とわかった。フレンチ・レストランなのだから当然である。しかし、どんな意味だったか。確かに知っている言葉であるのだが、その意味が出てこない。海はラ・メール、星はイストワールだし、希望ならエスポワールだ。ほんのわずかにかじっただけのわたしにも、それは知っているはずの言葉であるのだが。 立ち止まったままずっと考えていた。10分はそうしていたような気もする。店主は店の中に引っ込んでしまったし、他の客はそれぞれの連れと談笑しながら食事を続けている。店員が不思議そうにこちらを見る。支払いも終わったのになぜ出て行かないのだろう。わたしも誰かと来ていればあるいは答えを聞けたのだが。 そう思ったときに目が醒めた。寝汗が気持ち悪い。わたしが見る悪夢というのはいつもこんなのだ。別にたいしたことが起きるわけではない。奇妙に細かく描写されてるとはいえ、むしろ普通に現実でも起こりうる範囲のことが多い。だが、その現実感がわたしにはどうしようもなく苦しいのだ。あまりのなまなましさに吐き気を覚える。 ここまで書いておいて気がついたが、ほとんど昨日の夜にみた夢のことである。厳密に言えば一昨日の夜から昨日の朝にかけてみた夢だ。それが少なくともわたしにとってはあまりにもひどい悪夢であったため今日、つまり昨日の夜から今朝までにかけて、は寝なかったことは先に書いた。となればこれは昨日の日記とすべきなのかもしれない。しかし、なにしろ寝ていないためどこまでが同じ一日かという感覚もあやふやである。この日記の日付はどうしたものか。 ベッドから起きるとすぐお茶を飲んだ。目覚めてしまえば辞書を引くまでもなく答えはすぐにわかった。オー・ルヴォワールは別れの挨拶、つまりさようならである。 |
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7/13 「水底にひそむ」 | ||||||||||
■ 雲丹(ウニ。海胆、海栗などとも書く) | ||||||||||
八方ふさがりのウニのような髪型をしている。ミソはムラサキウニ(食用ウニの一種、比較的お手ごろな価格のウニ)ほども入っていない。このようなたとえを使うと誤解される方がいそうなので書いておくが、ウニのあれは脳みそではない。魚で言えば真子と白子である。念のため。 そのウニのような髪型だが、どういうことかと言うとやや長めの髪に粗いシャギーを入れ、全体的に外側に巻き返すようなパーマが入っている。髪質はあまり腰がなく、かなり細めで本来パーマを入れなければクセはまったくない。色はかなり暗めの茶色、日陰で何かの拍子に照り返した明かりを浴びたりするとふっと浮き出る程度のかなり軽い光沢がある。セットはマットワックスを使う。ほとんど乾いた状態で毛先にわずかにワックスをつけて、パーマの流れを利用して上向きに立ててやる。裁縫針よりやや細い程度にまとめてハネをいくつも出す。なのでセットには毎朝時間がかかる。これを繰り返すと八方ふさがりのウニのようになる。空に向かって思い切りトゲを突き出したいのだが、押さえつけられてままならないので横にそれ、それでもなお空を目指すというような感じだ。ウニのような髪型といっても、昔のギャグマンガ「今日から俺は!」の伊藤なんとかのような髪型ではない。 美容院に行ってしばらくの間はそれでもなんとかウニを保っている。だがだんだん髪が伸びてくるにつれ、海産物のウニとしての地位は危うくなっていく。鮮度の劣化はまず針先に現れる。それでも空を刺さんと狙う細かな針が、ほどけ、絡まり、まとまってうなだれ始める。海の重みに縛られて、天をたくらむ気概を失いただ底を這うだけのウニになってしまう。それでもウニはまだウニである。 それがさらに伸びてくるともはやウニではなくなる。まとまった針がその重みに耐えかねて下を向き、また別の髪とまとまる。加速度的にまわりの髪を吸収し地の底へと落ちていく。もはや針のすがすがしい細さはなくなり、大気をからみ取る太い触手のようなものになる。何をたくらむのか八方に腕を伸ばし、しかしけっして空は指さないタコの触腕のようだ。何かの拍子に内側に反り返りほほをなでることもある。はねのけると今度は二本になって返ってくる。タコにからみ取られていくようだ。 やがてパーマもほとんど取れてしまう頃には、その触手すら作ることができない。髪もたいがいな長さになり、頑として上を向こうとしない。もともとやや長めなのだ。いくつかをまとめてハネを出そうとするのだが、全て地面の方を向いてしまうのであまり役に立たない。確かにそこに触手はあるのだが、全てシルエットに同化してしまう。干されて炙られるスルメのようである。何かの拍子にパーマの名残が息を吹き返し一本だけ跳ね返ったりもする。 こうなるとセットも前にも増して時間がかかる。パーマが消えかかるともともと何のクセもない髪なのでただ流れるだけの長髪になってしまう。せめて人前に出ても情けなくならないようなものにしようと悪戦苦闘する。朝風呂に毎朝入る習慣があるのだが、髪が濡れているとハネが出にくいのでしっかりと乾かさなければならない。その分も余計に時間がかかる。さあセットをしようと髪を乾かして鏡を向くとオバケのQ太郎のようなシルエットの顔が映っている。このまま外に出るのは会う人に対して失礼にあたるほどに見苦しい。これだから長髪は嫌いなのだが、短い髪は似合わないらしいのでどうしようもない。 |
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7/14 「なわばりを主張してみる」 | ||||||||||
■ [更新]グルメマップ | ||||||||||
本サイトの方のグルメマップを二日かけて仕上げた。入れ物だけあって中身がなくてもしようがないので、5つに分けたマップのそれぞれに一店舗づつ紹介記事を書いた。 マップを作っていて思ったのだが、日ごとに生活範囲が狭くなっていく。紹介するのは現在のわたしの生活圏にあるものだけにしようと思い、地図の範囲もかなり狭く区切ったつもりだが、それでもまだ広すぎたようだ。いわんやその外の範囲などもう長いこと近づいてもいない。 あそこで食べたフレンチはおいしかったな、あの時一緒に行ったのは誰だったか。そんなことを思い返し、自分がその一角に近づかなくなって久しいことを考えると悲しくなった。よく遊んだ相手、いつもうろついていた自分のなわばりの一角だったところ、そうしたものがゆっくりと朽ちていき、気がつけば自分の一部ではなくなってしまっていた。何かがあってある日突然になくなるのではない、それはゆるやかにはびこる病のようなものだ。虫食いのように自分のなわばりの地図に穴があき、人間関係は失われ、気がつくともうそこには行き辛くなる。何か自分が納得できる理由を作らなければ人と会うのもままならない。 |
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■ 巣穴 | ||||||||||
わたしには帰るところがない。住むところ、寝るところがないという意味ではない。自分が自分の演技をせずにただの自分であることを許せるようなところがないということだ。だから一人が怖い。飼い主をなくしたペットのようなものだ。人と出かけるといつも帰りたくなくなる。 だからこそ、人といるのもそして人と出かけるのも恐ろしい。またすぐに一人にならなければいけないことはわかっている。なのに情を持っていかれるのはたまらない。だから人と会うときはいつも離れている。心も距離を置くようにしている。こんなわたしを見て人は冷たいと言う。 |
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7/15 「とけてゆく音」 | ||||||||||
■ 書くことについて | ||||||||||
なぜこんなものを書いているのだろうか? こんなものとは、この日記のことである。周辺の、サイトに載せているさまざまな他のことも含む。そのサイトの入り口に断り書きしたように、非常に個人的な範囲での理由はある。やむにやまれなさのようなものだ。あまりにも漠然としていて自分自身よくわかっていないのだが、もうなにかを書かないとやっていけない、そんな切迫感がある。追い詰められている。書くことから逃げられない。好んで書いているのとはたぶん違うだろう。この感覚が何かは実はよくわかっていない。
ではいったい何を書けばよいのだろうか。どうしても、それこそ自分の命も含めてなにもかも一切合財を捨てても、書かなければならない何かがあるような気がする。書き「たい」ものとは違う。自分の書きたいものがわからない――そういうことではない。それは自分の意志がどうあれ、何としても書かねばならないものなのだ。自分がこの世にあることと代えても、どうあっても書かなければならない。そんなものだ。だがその強迫感は強くとも、何を書けばいいのかわからない。今書いているようなこと、これまで書いてきたようなことでいいのだろうか。違っている気はするが、それでよいような気もする。どちらにせよ個人的なものだ。 これを見る人は自分以外にいるのだろうか? そしてそもそも、人に見られることは必要なのだろうか? あるいは見られたいと思っているのだろうか? 本当のところはわからないが、少なくとも見られたいという気持ちはどこかにあるのではないだろうか。そうでなければネット上に書く必要はないのだし、何より、書いている時にどこかそれを見るかもしれない人のことを想定している気がする。 もっとも、書かねばならない何かにとって、見られることが必要なのかどうかはわからない。それをちゃんと書くことができたらそれで終わるのかもしれない。その後でそれが誰かの目に触れようがそのまま消えようがかまわないのかもしれない。あるいは、人に見られる(あるいは読まれる、聴かれる)ことで初めて完成するような何かなのかもしれない。それはまったくわからない。 昔、ベンヤミンという人は芸術作品というものが作られたら、それを見る人が誰一人おらずそのまま朽ちて消えてしまってもそれは芸術なのだというようなことを言った。それを初めて読んだ時には、それは違うと思ったのだが、どうなのだろうか。芸術とか作品などといった言葉はそれ自体よくわからないので、簡単に考えてみる。誰もいないところで誰かが何かを言った。それは誰にも聞かれることなくそのままただの音として空気にとけて消えた。それは言葉といえるのだろうか? 今わたしが何かひとり言を言っても聞く人はいまい。だが、それも言葉であるような気がする。気のせいかもしれない。 言葉を口から出すということには、どうやら二つの側面があるらしい。一つは、その言葉で何かを伝えるということである。これにはおそらくその言葉を聞く相手がいなくてはなるまい。もう一つはその言葉を出すこと自体が、なにかしらの行為としての意味を持つという面である。これは聞く相手を必要とするのだろうか? よくこの場合の例として出される「ここにこの二人の結婚を宣言する」という結婚式の時の牧師なんかの言葉は、言葉の内容に重点があるのではなくて、その宣言がなされることでおおやけにその結婚を認められるという一種の儀式である。しかしこの例はそれを聞く聴衆がいなければ成立しないような気がするのだが。 だが、口から出た全ての言葉がどちらかの側面に分かれるというのではなくて、どの言葉も多かれ少なかれ両方の側面を持つとするのならば、誰かに聴かれることを必要としないような行為としての発話もありうるのではないだろうか。そしておそらく、それはわたしが感じているように、その発話する者にとっての非常に個人的なことばとなるのだろう。 わたしは書かねばならない。それが何かまったくわからなくとも、とにかく書かねばならない。誰かに対して叫びたくなることもある。だが、それを抑えて書かねばならない。 |
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7/16 「分析癖とその結果」 | ||||||||||
■ 面白さについて | ||||||||||
精神医学の本を読むのが好きだ。いわゆる心理学のお話といった感じのものから、より臨床的なもの、あるいは神経内科的、脳生理学的な見地から書かれたものまで何でも読む。実際に患者に接する医者の立場で書かれたものが特に好みだ。研究者の書いたものも嫌いではないが、平板な印象があるものが多い。医者としては問題があるのだろうが、患者との距離が取りきれていないような医師の書いたものが特に面白い。患者の側から書かれているようなものはたいていつまらない。中には読ませるものもないことはないが、たいていは三文体験記の域を出ない。どの分野にもあるだろう、その領域とまったく関係のない素人を一週間なり一年なり特殊な世界に叩き込んで、門外漢の目から見たその世界を紹介させるというような文章が。患者の書いているようなのはたいていがそんな程度の見聞録だ。潜入(突撃?)体験記のたぐいが面白くないのは、結局のところ筆者はその世界に潜入もしていなければ突撃もしていないからだが、こうした患者が書いたような精神医学の本にも同じことが言える。その世界に本当に属したことが一度もない、最初から最後までいつかは帰るお客様でしかなかったような素人が書くものが面白いわけがない。
こうしたもので例外的に面白いと思ったものはそういうところがない。いつかは帰る客人の立場でなく、その世界に組み込まれその世界独特の感じ方や考え方を身につけ、どうしようもなく足抜けできないようなところまで絡め取られてしまった人の書くものはやはり面白い。念のために言っておくが、病気の種類やその重さ・病気が治ったことなおらなかったことなどとこのこととはまったく関係がない。もっとも本の形で目にすることができるのは比較的病状の軽い患者のものだけであるのだが。 医師が書くものを特に面白いと感じるのも同じ理由である。読んでいて一番楽しめるのは、病に苦しんで自分のところにやってきた患者を話の種にし、笑いものにして書くだけの覚悟のある医師が書いたものである。 だから患者の書いたもので面白いのは、たいてい自分の感情をほとんど交えずに淡々と経過を詳細に記述してあるだけのものか、病を生活のいいわけに使うような自分をなじり笑うようなものだけである。そうした本には他の患者をいたぶり、医師や家族をさいなみ、そうする自分を離れたところから見ているような目があり、それが心地よいのである。 |
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■ 自己分析 | ||||||||||
こうした本を読んでいて、自分を分析してみたくなるのはなにもわたしだけではあるまい。自分にはどのような傾向があるのか、病気なのかどうか、病気だとしたらどの程度のもので何の病気なのか。もちろん、まともな本であればたいてい書いてあるように、こうしたことを自分で分析しようとすることほど危険で信憑性のもてないことはない。ものすごく単純に言うなら、気狂いが自分が気狂いかどうかを判定しようとしていることにもなりかねないからだ。だが、それはそれとして、こうしたことを考えるのは楽しくはある。 性格的な側面としてはスキゾフレニア(分裂)的なものがある。色々なことを同時に考えたりできる反面、なにもかもにまとまりがない。おおざっぱで乱雑でいいかげんである。あきっぽい。一方で症状的にはパラノイア(偏執)的なところもある。時折病的な計画性を発揮する。何かに興味が向いている間に限れば異常に集中力がありこだわりをもつ。神経質な面もある。わたしの知っている範囲ではスキゾフレニアとパラノイアは並び立たないほど正反対のものであったはずだが、これはどういうことなのだろうか。単にどちらも普通の人に起こりうる範囲を出ていないだけの話なのかもしれない。 病気なのかどうかは判断のしようがない。これはわたしのせいではなく、読んだ限りほとんどの本がこのことで困っている。プロの医師や研究者にもどこから病気なのかは大問題であるのだ。脳に視認できるような病変があるならCTスキャンによって確認もできようが、あいにくわたしはCTスキャンを持っていない。それに病変が確認できるのは一部の病気に限られるらしい。仕方ないので多くの医者は日常生活に支障をきたすほどのことがあれば病気ということにしているらしい。しかしどうなのだろうか。日常に困っていることも確かにある。生活するのがかなり辛い。相当な意志によって作り上げた自分の姿を維持していないことには外に出るのもままならない。生きていようとしないと、生きていられないような感じだ。だが、支障をきたしていると言えるのだろうか。生きているのは確かだし、例えば歩けなくなったり目が見えなくなったりしたわけではない。結局これでも病気かどうかはわからない。 仮に病気だとしたら何の病気なのだろうか。性向分析ではなんなのかわからなくなったが、おそらく分裂病ではない。この病気に特徴的なのは、ありもしないものが見えたり聞こえたりする幻覚・幻聴である。これは見られない。とは言え、この病気の最大の特徴は病識のなさである。ひょっとしたら自分では現実にあるものと思っているものが幻覚であるかもしれないし、自分でこの病気ではないと思っているそのことこそが、この病気であることを示しているのかもしれない。 スキゾフレニーでないとするなら、典型的なパラノイアの病気である鬱病はどうであろうか。日々の抑うつ感や自殺念慮などあてはまる点は多い。だが、これがなければ鬱病ではないと言える鬱の本体的な症状、異常な責任感とその順位をつけられなくなること、についてはまったくない。むしろ責任感など最も縁のない感情である。従って鬱ではない。だいたい攻撃的傾向のある性格の人間が鬱であるはずもない。双極性障害(躁鬱病)ならまだしも可能性があるが、これもありえないだろう。抑うつ状態でありながらも攻撃性向が表に出ること、つまり躁状態と鬱状態の特徴が同時に現れることはこの病気ではありえない。 このように典型的な症状が現れているかどうかで消していくと、わたしにとっては残念なことだが、ほとんどの病気が残らない。可能性があるのは、およそ精神医学の病気とは言いがたいような境界性人格障害(ボーダーライン)だけである。しかしこれだけは矛盾なくよく当てはまるのだ。残念ながら今回の自己診断の結果としては、病気ではないか、もし病気であるとするなら境界性障害であるとせざるを得まい。実はこの病名(病気とは言えないようなものなので、病名というのに違和感はあるのだが)を知った時から、恐らくこれであろうとかなり以前からあたりをつけていたものである。これは、病気や異常というよりはむしろ多少性格の極端なものとされており、抑うつ感、疲労感といった鬱病の特徴の大部分を持つためにしばしば鬱病と混同される。ただし鬱病の最大の特徴である責任感はまったくなく、むしろ無責任と言ってよい。いわゆる贋物の鬱病とされているものの大部分がこれである。鬱であるようなそぶりを患者はとるが、例えば自殺をほのめかしたり実際にその行為を行ったとしても、たいていが自分に注意を引くための演技であり本当に死ぬつもりはまったくない。従って鬱の場合とは違い、人目のないところではけっして自殺しない。甘えた精神の所産による、病気とも言えないただの性格傾向であり、難治性の場合を除いて非常によく薬が効く鬱とは違い、そもそも病気ですらないのだから当然だが薬はほとんど効果を持たない。このように書いてきたのでわかると思うが、かつてヒステリーと呼ばれていた発作や性格のほとんどはこれである。 今回の自己分析はこのへんで終わっておこう。余談だが、ボーダーラインの典型的な特徴とされているものの一つに、このような自己分析癖が挙げられている。 |
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雨の中の猫
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