日記のようなもの
2004/6
このページの画像には、一部に*nankanoyume*さまの素材を使わせていただいています。
雨の中の猫
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6/22 「冬瓜の夢、結婚式、その他の出来事」
 
■ 自己診断:(こうしたものを自分自身で判断するほど危険なことはないわけですが)

 

 

 

■ 最近の状況
 

 だいたい二日か三日に一日ほど、とてもひどい日がある。それ以外はおおむね小康状態と言ってもよい。もともと大波・小波はある方だったがそれが特に顕著になっているようだ。仮面をかぶることがしんどいというのは以前からあったが、このところ本当にひどい時はもはや自分の意志の力ではそれが維持できなくなっている。耐えられないならば、人前に出なければよいとして生きてきたが、今はそれもままならない。少なくとも一人になるまでは保っているべきものが、人前で突然にひび割れ、崩れ、その内側をさらしてしまいそうになる。いよいよ終わりも近いのかもしれないという感覚が強くある一方、だからこそ普段なら絶対にしないようなことをしてみようとも思う。もっとも実際に行動に移したのはほんのわずかだが。

 
■ 舌と筆の劣化
 
 書くにせよ話すにせよ言葉が見つからなくなることがある。こういうこと、というもやのようなものは確かにあるのだが、それが言葉に結びつかない。本来語彙の多い方でもなければ文の得意な方でもないのでそうした能力が単に劣化しただけかもしれないとも思う。もうかなり以前からあった、文章をどうしても書けなくなるというのが、より拡散した形で現れているのかも知れない。なんとか治ったとは思っていたのだが。かつてと明らかに違うのは、それが饒舌を伴うことである。自分の言葉で文を書こうとすると沈黙してしまう、言葉に結びつかないわけではないが、体が書くことを拒絶しているかのように停止して石のようになってしまう。そんな状態だった以前に対して、何かが出て行くことを求めて、その周りを無限軌道でくるくる回っているように、饒舌になる。もう体が止まりはしない。止まれないのではないのかとさえ感じられるほどに、ただなにもないことを連ねていく。その中心にはなにもないだろう。
 
■ 冬瓜の夢
 
 ひどい夢を定期的に見る。血なまぐさいものは少ない。いや、それどころか、平凡でさえあるかもしれない。おそらく内容を誰かに伝えたところで、ありふれた普通の光景じゃないかと言われるだろう。だが、それは本人にとってはとてもひどい夢なのだ。おそらく、ひどいのは内容ではない。それがどうあれ、夢自体のなまなましさに耐えられないのだ。気がつくとかならず嫌な汗をかいて目が醒めている。暑い中、時刻はわからない、どこかで見たことのあるような女と寝ている。そろそろ冬瓜の季節だと独り言を言うと、そこに買ってあるという。丸々と大きな見事な冬瓜に、いまだ作ったことのない中国風の冬瓜のスープを作ろうと思う。丸のままの冬瓜をそのまま蒸し上げる豪快な料理で、(表面の細工をしなければ)取り立てて難しい技術はいらないが、恐ろしく手間もかかるし、丸ごと冬瓜を蒸せるような大鍋も必要だ。その冬瓜に適当に下ごしらえをして、いざ作ろうという段になって鳥がないことに気がつく。中国風である以上、鳥でスープを取らなければならない(さらに火腿があれば最高だ)。丸鳥とは言わないが、がらか、せめてスープが出るくらいの鳥のもも肉なりがないかと探すが冷蔵庫のどこにもみつからない。女は、冷凍庫から出来合いの(レンジで暖めるだけの)春巻きか、そぼろを平パスタで巻いたようなものを取り出して、この中身が鳥だから使えと言う。そんなものでスープが取れるわけがない。
 
■ 結婚式
 
 月のはじめに結婚式があった。大学に入ったばかりの頃、所属していたサークルの同級生で、器量が良くない上に性格も悪かったので自分は嫌っていたが、なぜかサークルではそれほど嫌われてもおらず、自分と仲のそれほど悪くはなかった自分と同じくらいに性格の悪い男と付き合っていた女のもので、相手はその男ではなかった。理学部を卒業しサークルと縁が薄くなってからというものまったく会っていなかった顔見知りたち数人と、五年かそのくらいぶりに会うことになった。当時、新婦とつきあっていた男は来ていなかった。彼とはもう五年以上会っていないことになる。サークルで同じ役割についており、複雑な関係にあったある女はそれより複雑な関係にはなかった男と結婚して、二児を連れて参列していた。まだ小さいが、二人とも両足で立つことができる年齢だった。考えてみれば、この前に彼らと会ったのはこの二人の結婚式で、この上の子がその時母親の腹にいたはずだ。一見しっかりしているようでいて、その実、追い詰められるとどうしても一人では立っていられない弱さのあった女は立派な母親になり、いたずら盛りの二人の子どもをしっかりとしつけていた。性格はいいのだが、心底いいかげんでいつもぼんやりとしていた楽観主義だけがとりえだった男は、家族を率いて堂々と座っていた。あるいはそういう幸せを認めるべきなのかもしれない。それがまやかしであることを心底わかってしまったために、それを手に入れる資格を失ってしまった身にもそれは幸せそうにも見えたのだから。誰も彼も会わなかった時間の分だけ年をとっていた。おそらく自分もそうなのだろう。醜い女はより醜悪さを増し、美しいと思った女の顔にはしわが寄っていた。物静かな長身痩躯で、しかし女慣れしていないがために悪い女をつかまされることになった、ただ一人の友人の額は後退し全てがだいないしになっていた。老いていくのは自分だけではなかったか。かつて一番人気のあった女に声をかけられそれとわからなかったのは、何も自分の視力が衰えたせいだけでもないのだろう。自分に並ぶ性格の悪さと厳しさに一目置いていたのだが。それゆえに喧嘩別れしたはずで、最後に会った時にはやんわりと話すことを拒絶された覚えがある。互いに気があり、そのことを互いに、そして周囲もわかってはいたが、自分自身がサークルで与えられた面倒な仕事の同僚であった女からの好意を、その役職についていた間ずっと無視していた手前、(その同僚の女もそのことをわかっており、そのために自分が引いて二人をうまくいかせようとしていたのだが)、結局それを形にすることはできなかった。そのせいではないだろうが、向こうは数ヶ月ほどの間顔を出さなくなり、その間に新入生をひっかけたことがおそらくは決定的な要因になり、絶交状態のまま会わなくなった。かつて、かわいらしいとみんなに思われ、そのかわいらしさの一つの頂点であった彼女の八重歯は、見苦しい不ぞろいな出っ張りでしかなかった。
 
■ ふたたびの自己診断
 
 ガラス水槽のような世界にひびが入り、水が漏れ出している。そろそろ終わりという実感がある。今こそ、絶対にしないことをしてみようとも思う。そう思うのも弱さの一つの現われなのかもしれない。不恰好であれ、なんとかかぶっていなくてはいけない仮面を、維持していけるだけの強さが失われようとしているのであれば、もはや自分は生きていてはいけない。その最後の狂騒が願わくば自分のかろうじての意志のもとにあることを切に望む。

 

 

6/26 「自己嫌悪のあり方、仮面の行方」
 
■ 食事
 
 以前からとてもお世話になっているご夫妻に夕食をご馳走になる。仕事をしなくなってからというもの、長らく縁がなかったような高価な食事となった。オークラの最上階のレストランに連れて行かれ、フレンチのコースにモンラッシュ他のワインを飲む。だが、必ずしもおいしくはない。
 わたしはおいしいものに目がない。これまでの人生で今にして思えば考えられないような幸運に恵まれ、たかが二十代のそれも学生としてはありえないような美食体験をしてきた。大学に入った年に出入りし始めたとある編集プロダクションの社長には、ことあるごとに東京へ連れられ大手出版社の編集部員たちとともに豪勢な食事をご馳走になった。たまたま大学とは関係のないところで知り合った大学の教授は、顔を見ると必ず高い酒を飲ませてくれた。もう数年以上日本に滞在しているというある外国人は、京都の和食の本当に旨い店と、そして彼の母国の味が日本人向けにやわらげられたものではなくそのままに味わえる大阪の店とによく連れて行ってくれた。似たようなことは大学に入る前からよくあった。そしてまだ二十歳にも満たない頃のわたしはそうされることが自分の実力であるかのように思っていた。
 こうした人たちのほとんどから今はもう疎遠になってしまっている。彼らがわたしを見限ったのだろうか、わたしの方から離れていったのだろうか。彼らはわたしに何を期待していたのだろう、足場のない自信とぎらぎらした思い上がりのみで生きていた若造を、世慣れた彼らがそれと見抜けなかったはずはないのだが。
 この夫妻はほとんど唯一いまだそうしたことをしてくれている人たちだ。あなたたちはわたしに何を望んでいるのでしょうか、わたしはそれに応えられるものを何も持っていません。ほんとうに何もないのです。
 わたしが何かを食べておいしいと言うと彼らは嬉しそうな顔をし、次の食べ物を勧める。奢られることに慣れた人間らしくごちそうさまをあまり重たくないように伝えて、鷹揚な満足の笑顔を作る。おいしかったです。また行きましょうね。おやすみなさい。気をつけて帰りなさいね。彼らを乗せたタクシーが遠ざかっていく。
 
■ 電話
 
 取り立てて用事もないのに用事もない相手に用事を作って電話をし用事もないのに二時間余り話す。近年まれに見る長電話になる。電話された方はたまらないだろう。やはり自己抑制の仮面が保てない時は人と接してはならないと思う。情けないことにわたしは弱い人間なのだ。それも平均的弱さというよりは、むしろ弱い人間の平均をはるかに下回って弱いだろう。しかしどれだけ弱い人間であろうともその弱さを人に甘えてはならない。みんななにかしらの弱さをそれぞれに抱えてがんばっているのだ。弱さを人に見せて甘えるなど卑怯な輩のすることだろう。その弱さを内に隠す自己抑制の仮面が保てないならば、そしてわたしは弱い人間なので往々にして保てないのだが、人と接してはならない。いっそ一人で苦しめばよい。
 だってそれしかないじゃないか。

 

 

6/28 「襟を立て棺から這い出し席につこう」
 
■ 喉が渇いた時には
 
 トマトジュースが大好きだ。別に冷えてなくてもいい。多少ぬるくたってかまわない。氷は入れないで欲しい。どろっとした、粘り気のある、水面につぶつぶが見えるようなやつがいい。ふた夏ほど前から流行っているサラサラしたトマトジュースはいやだ。ビンやカンのままでもかまわないが、グラスに移すなら必ずグラスを洗ったあと表面に残った水滴をふき取って欲しい。薄まるのがいやなのだ。塩は始めから入っているのがいい。多少塩気がきついくらいのでもいい。無塩のであれば香りのよい塩をほんの少し入れて欲しい。
 トマトジュースのようなキスも好きだ。痩せて少し筋の浮いたような細い首に顎を開いて大きく噛みつきほんのわずかに犬歯を立てる。少しの分だけ息を吸ったら力を放してほとんど触れないくらいになめらかに、ゆっくりと、口を閉じていく。音もしないほどなめらかに金属の表面を水滴が走るように。唇と肌の間に和紙のような空気が一枚あるといい。なめらかに、だが、肌とこすれると塩気のある匂いに触るのもいい。空気が乾いてるならなおいい。終わるまでこちらは見ないで欲しい。遠くにある心臓の匂いもするだろう。
 トマトジュースのカクテルも好きだ。レッドアイもいいらしいがブラッディマリーが一番いい。冷凍庫で凍らせたスピリタスを使うのがいい。酒として味はあまりよくないが、トマトジュースが薄まらないのがいい。この場合ジュースは冷えていた方がいい。しかし絶対に凍っていてはいけない。凍ったトマトジュースは味が落ちる。塩はウォッカの味にあわせて使う。グラスも冷やしておかねばならない。長い筒の底を掘り返すようにステアする。氷を使うならすばやくしなければならない。ガラスの壁に霜がおりればそれでいい。レモンはどちらでもいい。ほどよくできていれば無い方がいい。ピールを三日月にして飾ってもいい。最後にソースを振る。やや多めに振ってくれる方がいい。辛味のきついウスターソースを選ばなければならない。ビネガーと一緒にどばどばチップにかけるようなのがあればそれがいい。必ずストローは刺さねばならない。ストローで混ぜて飲んではならない。生命の最もおいしいところを掬い取るように、グラスの底から吸い上げるのが一番だ。ソースの味のきつい部分が最後に残り、倦んだ味がするのもまたそれがいい。

 

 

6/30 「依存性のあるやさしさ」
 
■ 祈り
 
 もう幸せなんていうものはこの世にないのかもしれない。けれどみなに幸せであって欲しいと思う。せめてこの世でたまたまわたしに関わりをもってしまった人たちだけでも、たとえわたしを憎んでいる人でも、わたしにひどいことをした人たちでも、たまたま同じ日に同じ喫茶店でコーヒーを飲んだだけの人でも、どうか幸せであって欲しいと思う。わたしは一生不幸でいい、だから、どうかその人たちには幸せでいて欲しい。

 
■ ヒコーキが空に刺さっていた日
 
 同時多発テロが起こった日、わたしは実家にいて何をするでもなく居間でお茶を飲んでいた。たまたまその数日前からキャッチ=22という戦争小説を読んでいた。親がつけっぱなしにしていたTVに、何が起こっているのかまだ飲み込めていない突然たたき起こされたという感じのマイクを持った男が現れ、意味のよくわからないことをわめき始めた。彼の背景には空に突き刺さった飛行機が映っていて、やがてその数が二つに増えた。
 邦人犠牲者の名簿が確定して、事件の表面的な全貌がようやく人々にも知らされ始めた頃、わたしはまだ実家にいた。どんな風に計画が実行に移されたか、それがいかによくできたテロであったか、そうしたことが連日放映されていた。わたしは激しい怒りを覚えた。もしもわたしの乗った飛行機にそうしたテロリストが現れたら、刺し違えても殺してやる。アラブ以外の世界観を認められないのであれば、アラブ人は皆殺しにしてしまえばよい。いっそ自分が兵隊となって、そうした連中と戦って死んでもいい。本当にそう思ったのだ。
 秋に入った頃ブッシュの復讐が始まり、京都に帰っていたわたしは当時暮らしていた彼女の家でそれを見ていた。熾烈極まりないアメリカ軍の猛攻に、街は崩れ家は焼け、その下で多くの人々が死んでいった。わたしは再び怒りを覚えた。なぜそんなことをするのだ。圧倒的な力で、それに対抗することはおろか逃げることさえできない無力な人々を踏み潰していく。傲慢なブッシュめ、彼らを殺すならいっそわたしを殺してみろ。
 この二つの怒りが結局同じものであり、同じ精神の働きから発しているものであることに気がつくのには、いくら愚かなわたしでもさして時間はかからなかった。それは怒りなどというものですらなく、ただの恐れにすぎなかった。所詮身勝手な、自分のかわいさと自己保身の本能と自己顕示欲とが合作したただの幼稚な怒りだった。ほんとうに怒るなら自分の不幸を怒ればよい。だが力もなく意志もなく、自分のことをどうする自信も持てないわたしが、わざわざ他人の不幸を持ち出してそれに怒りを転嫁しているだけなのだ。他人の不幸であれば、それがどうにもならなくとも、わたしが責任を持たなくてもすむ。そのような心の働きを、幼稚な身勝手さと言わずして何と言えるのか。

 
■ 再びの祈り
 
 みんなが幸せでいて欲しい。どうか、わたしと関わりをもってしまった人たちだけでも、せめて幸せであって欲しい。そのためにわたしは一生不幸であってもいい、だからどうか、わたしを知ったことのある人たちだけでも、幸せであってくれたらいいと思う。それらの人が幸せであってくれたなら、たとえ不幸の泥にまみれて一生一人で過ごすとしても、わたしはそれで救われるのではないかと思う。だからどうか幸せであっておくれ。
 このような祈り方しか知らず、それをやめることもできない自分をわたしは心底呪う。このように他人の幸せを祈ることで、自分は安価に気持ちよくなれるのだ。この身勝手なやさしさには依存性がある。他人の不幸をほんとうに哀れんだり、人の幸福をほんとうに願ったりしているわけではない。力も意志もない個人が、本当に望みたいのは自分の幸福であるはずなのに、それを自分の幸福としてしまうとそれに対して自分で責任を取らねばならないために、他人に預けてそれを祈っているだけなのだ。とりたてて大したこともなく、ただ浪費として人生を送ってきた両親が、幼い頃からその子どもに言い続けてきた幸せだ。その子も長じて同じやり方でしか自分の幸せを祈れないような大人になった。責任を取らなくてもよいものにしか祈れず、その傲慢な身勝手さをやさしさと勘違いしている人間のなんと多いことか。そんな形でしか自分のために祈れない人々をわたしは呪う。
 それしかわたしにできるやさしさがないのなら、わたしは自分のやさしさを捨てよう。そう思ったのはかなり昔のことだ。わたしの身勝手のために、わたし自身の弱さのために、他人にその責任を押し付けるのは、とても失礼で無作法なことではないか。だがそれでも、もしも、そうではなくて、ほんとうに人にやさしくあれるならばわたしはそうありたいと、まだ思いもする。

 
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